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芥川龍之介の生い立ち 作家の生涯

芥川龍之介(1892~1927年)と言えば「羅生門」が最も有名ですが、この作品が発表されたのは、1915年11月のことです。

しかし、作者の自信に反して、「羅生門」は発表当初には、ほとんど反響を得ることができませんでした。

芥川が新進作家として文壇に登場するのは、翌1916年2月の「鼻」が、師の夏目漱石に激賞されたことをきっかけとします。

以下、芥川龍之介の生い立ちとして、その幼少期から、東京帝国大学在学中に書かれた「羅生門」発表頃までの足取りをご紹介致します。

 

 

(1)芥川龍之介の生い立ち

①誕生

芥川龍之介は1892年、東京に生まれました。

その「自筆年譜」(1925年)によれば、龍之介の名前の由来は、「辰年辰月辰日辰刻の生まれ」だったからだと言います。

芥川の実父は牛乳販売業を営む新原(にいはら)敏三、実母はフクです。

しかし、生後八カ月頃、フクが精神に異常を来たしたため、芥川はフクの実家である芥川家で養育されました(正式な養子縁組は12歳の時)。

母の発狂の原因としては、前年に長女ハツが亡くなっていることや、芥川が父四十二歳、母三十三歳の大厄の年に生まれたことによる心労が指摘されていますが、定かではありません。

発狂後、フクは新原家二階の座敷牢のような部屋で過ごし、芥川が10歳の年に亡くなりました。後年、芥川は「点鬼簿」(1926年)の中で、「僕の母は狂人だった」と告白しています。

 

②芥川家

養家である芥川家は、代々、幕府の御奥坊主を務めた士族の家系で、江戸趣味の濃い家庭でした。養父の名は道章、養母は儔(とも)です。

しかし、芥川の養育に特に熱心であったのは、同居していた伯母フキでした。芥川自身もいくつかの作品で、この伯母について言及しています。

(家族には)その外に伯母が一人いて、それが特に私の面倒を見てくれました。今でも見てくれています。家中で顔が一番私に似ているのもこの伯母なら、心もちの上で共通点の一番多いのもこの伯母です。伯母がいなかったら、今日のような私が出来たかどうかわかりません。(「文学好きの家庭から」/1918年)

また、遺稿「或阿呆の一生」の中にも、以下の文章を探すことができます。

彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかった。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じていた。一生独身だった彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだった。

 

芥川龍之介「文学好きの家庭から」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

伯母フキは芥川を「龍ちゃん」と呼んで可愛がりましたが、決して甘やかさずに養育しました。実際、様々な人物が芥川の礼儀正しさを指摘しています。

芥川の「追憶」(1926~27年)という作品の中には、以下の回想があります。

僕は何かいたずらをすると、必ず伯母につかまっては足の小指に灸をすえられた。僕に最も怖しかったのは灸の熱さそれ自身よりも灸をすえられると云うことである。

また、フキは芥川に早くから文字と数を教え、遊びとして、昔話や民話を語って聞かせました。更に、芥川家には草双紙類の詰まった本箱があり、幼少期の芥川は、それらを読んで成長しました。

僕の家の本箱には草双紙が一ぱいつまっていた。僕はもの心ついた頃からこれ等の草双紙を愛していた。殊に「西遊記」を翻案した「金毘羅利生記」を愛していた。(「追憶」)

 

③本所と大川

芥川の生まれたのは入船町(現在の築地近辺)ですが、生家の芥川家は本所にありました。

生家の近くには大川(隅田川)があり、芥川は「大川の水」(1914年)の中で、大川が彼の原風景であることを語っています。

自分は、大川端に近い町に生まれた。家を出て椎の若葉に掩われた、黒塀の多い横綱の小路をぬけると、直あの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである、幼い時から、中学を卒業するまで、自分は殆毎日のように、あの川を見た。

一応ですが、先述した通り、芥川の出身は入船町なので、「大川端に近い町に生まれた」というのは、厳密には正しくありません。

また、同じ作品の最後の部分では、芥川は以下のように書いています。

もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのに何の躊躇もしないであろう。独においのみではない。大川の水の色、大川の水のひびきは、我愛する「東京」の色であり、声でなければならない。

芥川は生家のあった本所を愛していました。それに関しては、後年の「大道寺信輔の半生」(1925年)の中の、以下の箇所が注目されます。

彼は本郷や日本橋よりも寧ろ寂しい本所を――回向院を、駒止め橋を、横綱を、割り下水を、榛(はん)の木馬場を、お竹倉の大溝(どぶ)を愛した。

 

芥川龍之介「大川の水」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

④小中学校時代

芥川は江東(えひがし)尋常小学校、及び同校高等科に通いました。

同時に、芥川は10歳頃から、家族の一中節(都一中が京都で創始した浄瑠璃)の師匠である宇治紫山の息子から、英語、漢学、習字を習っています。

この頃、芥川に書物の面白さを教えたのは、近所にあった貸本屋でした。

僕に文芸を教へたものは大学でもなければ図書館でもない。正にあの蕭條たる貸本屋である。僕は其処に並んでゐた本から、恐らくは一生受容しても尽きることを知らぬ教訓を学んだ。(「僻見」/1924年)

また、高等小学校時代には、帝国図書館などにも出入りして、滝沢馬琴、十返舎一九、近松門左衛門などの江戸文学、泉鏡花、徳富蘆花、尾崎紅葉らの近代作家の作品を読んだそうです。

尋常小学校四年時(1902年)には、芥川は仲間と共に、『日の出界』という回覧雑誌を制作し、そこに小説を発表しています。その後、高等小学校の頃、ほとんど同じ仲間で製作した回覧雑誌は、『実話文庫』というものでした。

1905年、芥川は東京府立第三中学校に入学しました。

この時代にも、芥川は仲間と共に、『流星』(後に『曙光』と改題)などの回覧雑誌を制作し、そこにおとぎ話や冒険小説などを載せています。

この頃に執筆されたものとして注目されるのは、「義仲論」という論文です。

彼は其炎々たる革命的精神と不屈不絆(ふはん)の野生とを以て、個性の自由を求め、新時代の光明を求め、人生に与ふるに新なる意義と新なる光栄とを以てしたり。(…)彼の生涯は男らしき生涯也。

芥川はここで、野生(また、それ故の純真)と大胆さに対する憧れを表明していると読むことが出来ます。

ところで、芥川の実父・敏三は長州藩の生まれで、若い頃、御楯(みたて)隊士として幕府軍との戦闘に加わったことがありました。

これに関連して、芥川は「紫山」(生前未発表)の中で、登場人物の口を借りる形で以下のように言い、実父の大胆さへの密かな憧れを表しています。

幸ひにも純一無雑に江戸つ児の血ばかり受けた訣ではない。一半は維新の革命に参した長州人の血もまじつてゐる

 

⑤高等学校時代

1910年、芥川は第一高等学校に入学しました。

その同期には、大学時代に第四次の『新思潮』(ここで「鼻」を発表)を共に刊行する4人の仲間、久米正雄、成瀬正一、松岡譲、菊池寛などがいますが、高等学校時代には、彼らとはまだ、あまり親しくなかったようです。

この頃の親友は恒藤恭(つねとう きょう)でした。芥川の「恒藤恭氏」(1922年)によれば、その交際は以下の通りであったそうです。

されど一高にいた時分は、飯を食うにも、散歩をするにも、のべつ幕なしに議論をしたり。しかも議論の問題となるものは純粋思惟とか、西田幾多郎とか、自由意志とか、ベルグソンとか、むずかしい事ばかりに限りしを記憶す。僕はこの論戦より僕の論法を発明したり。

また、この頃、芥川が友人の山本喜誉司に宛てて書いた手紙には、以下のような深刻な様子も窺えます(なお、後に芥川が結婚する文は、山本の姪です)。

しみじみ何のために生きてゐるのかわからない。神も僕にはだんだんとうすくなる(…)窮極する所は死乎、けれども僕にはどうもまだどうにかなりさうな気がする、死なずともすみさうな気がする。卑怯だ、未練があるのだ、僕は死ねない理由もなく死ねない、家族の係累といふ錘はさらにこの卑怯をつよくする、何度日記に『死』といふ字をかいて見たかしれないのに(1911年)

1917年の「私の文壇に出るまで」という作品は、この頃の芥川の読書傾向を知ることができるという点で、興味深いものです。

この作品によれば、当時の芥川の読書遍歴は、以下の通りだったようです。

中学から高等学校時代にかけて、徳川時代の浄瑠璃や小説を読んだ。(…)次には西洋のものを色々読み始めた。当時の自然主義運動によつて日本に流行したツルゲーネフ、イブセン、モウパツサンなどを出鱈目に読み漁った。

 

芥川龍之介「私の文壇に出るまで」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

1913年、芥川は第一高等学校を卒業します。芥川の卒業時の席次は二番で、親友の恒藤が一番の成績を収めたと言います。

 

⑥「羅生門」発表まで

1913年、芥川は東京帝国大学文学部英文科に進学しました。

当時の事情に関しては、「文学好きの家庭から」の中に、「文学をやる事は、誰も全然反対しませんでした。父母をはじめ伯母も可成文学好きだからです」という回想を見つけることができます。

翌1914年、芥川は第三次『新思潮』に参加して、そこにアナトール・フランスやイェーツの翻訳や、「老年」や「青年と死と」といった小説を載せています。

とはいえ、この頃はまだ、本格的な作家志望ではなかったことが、以下の文章から窺われます(「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」/1919年)

創作を書き出した動機というと、大学一年の時、豊島だの、山宮だの、久米だので第三次の「新思潮」を出した時に、「老年」という短編を書いたのが初めである。それでもまだ作家になる考がきまっていたのではなかった。

なお、芥川は第三次『新思潮』や『帝国文学』(翌年、「ひょっとこ」と「羅生門」を発表)で、柳川隆之介というペンネームを使用していますが、これは、北原白秋(本名隆吉、福岡県柳川出身)にちなんだとも言われています。

 

芥川龍之介「老年」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「ひょっとこ」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

この頃の重大事件に、吉田弥生という女性との恋愛と失恋があります。

彼女とは実家の新原家を通して知り合ったそうですが、1915年早春、芥川が家族に結婚の希望を打ち明けた所、特に伯母をはじめとする反対を受け、結局、芥川が折れて諦めるという事態となりました。

この事件を通して、芥川は自他のエゴイズムとその醜さを思い知らされ、一時は吉原遊郭に慰めを求めさえしたそうです。

この時、失意の芥川を救ったのは、親友の恒藤でした。その夏、恒藤は芥川を彼の出身地である島根に誘い、彼らは共に、宍道湖や寺院を見学し、また、出雲大社を参詣したそうです。

現在有力な説によれば、「羅生門」は島根から帰京し、活力を取り戻した9月中に書き上げられたと言います(ただし、草稿は更に以前からあり)。

そして、1915年11月、東京帝国大学在学中の芥川は、同文学部の『帝国文学』誌上に代表作「羅生門」を発表しました。

しかし、作者の自信に反して、「羅生門」は発表当初、ほとんど反響を得ることができませんでした。

「ひょっとこ」も「羅生門」も『帝国文学』で発表した。勿論両方共誰の注目も惹かなかつた。完全に黙殺された。(「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」)

同作の発表直後、芥川は友人の久米と共に、晩年の夏目漱石の面識を得ることができました。以後、芥川はその木曜会に参加することになります。

その後、翌1916年2月の「鼻」が、師となった夏目漱石の激賞を受けたことをきっかけとして、芥川は文壇デヴューを果たすことができたのです。

 

芥川龍之介「羅生門」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「鼻」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

(2)参考図書

芥川竜之介「あの頃の自分の事」他『芥川竜之介随筆集』(岩波文庫)

芥川龍之介「或阿呆の一生」『河童・或阿呆の一生』(新潮文庫)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

関口安義『芥川龍之介 闘いの生涯』(毎日新聞社)

海老井英次『日本の作家100人 芥川龍之介――人と文学』(勉誠出版)

 

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