History and Space for a Break

from my dear Andromeda

芥川龍之介「私の文壇に出るまで」 あらすじ/ノート

芥川龍之介(1892~1927年)の「私の文壇に出るまで」は、1917年8月に発表されたものです。

この頃の芥川は、前年の「鼻」が師の夏目漱石に認められたことで、「芋粥」や「手巾(ハンケチ)」で文壇デヴューを果たし、新進作家としてのスタートを切り出した時期にあります。

しかし、1917年5月、芥川はすでに創作集『羅生門』を刊行しており、芥川は以下のように語って、自信を示しています(「『羅生門』の後に」/1917年)。

自分は近来ますます自分らしい道を、自分らしく歩くことによつてのみ、多少なりとも成長し得る事を感じてゐる。従つて、屡々自分の頂戴する新理智派と云ひ、新技巧派と云う名称の如きは、何れも自分にとつては寧ろ迷惑な貼札に過ぎない。

今回の「私の文壇に出るまで」は、作家になるまでの芥川の歩みと、その読書遍歴をごく簡単に知ることのできる、非常に興味深い作品です。

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

 

(1)あらすじ

私は十位の時から、英語と漢学を習った。中学の頃は、書くことは好きであったけれども、「義仲論」という論文を出したきり、将来は歴史家と思っていた。

第一高等学校に入学しても、私は作家になろうとは思わず、英文学者にでもなろうかというつもりでいた。この頃はまだ、久米、松岡、成瀬、菊池らとは、親しくしていなかった。

大学一年の時、第三次の『新思潮』に「老年」という短編を書いた。三年の時に第四次の『新思潮』を出して、それから、作家になるとも、ならないともつかずに小説を書いてきた。

小学校時代、近所に貸本屋があって、高い棚の講釈の本を、私は端から端まで読み尽くしてしまった。

それから、『八犬伝』、『西遊記』、『水滸伝』を読み、滝沢馬琴、式亭三馬、十返舎一九、近松門左衛門のものを読み始めた。高等小学一年の時には、徳富蘆花の『思ひ出の記』や『自然と人生』も読んだ。

中学の時には、漢詩をかなり読んだ。泉鏡花にも没頭し、夏目さんや、森さんのものも大抵読んだ。

そして、高等学校時代にかけて、江戸時代の浄瑠璃や小説を読んだ。また、当時の自然主義運動で日本に流行した、ツルゲーネフ、イプセン、モーパッサンなどを読み漁った。

大学に入ってからは、中国の小説を無闇に読んだ。この頃、志賀直哉、武者小路実篤のものもほとんど読んだ。

特に、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』に酷く感動させられて、大学の講義を聞きに行かなかったこともよくあった。

私は島崎藤村の詩だとか、土井晩翠の『天地有情』だとかいった、日本の詩からは何らの影響も受けないでしまった。今までの所、私は甚だ平凡な一読書家であったに過ぎない。

ただ、夏目先生の所に出入りした一年ばかりの間に、私は芸術上の訓練ばかりではなく、人生としての訓練も経ていたという気がする。

 

(2)ノート

①高等学校時代まで

芥川龍之介は1892年、東京に生まれました。

実父は新原(にいはら)敏三、実母はフクですが、生後八カ月頃、フクが精神に異常を来たしたため、芥川はフクの実家である芥川家で養育されました(正式な養子縁組は12歳の時)。

芥川家は江戸趣味の濃い家庭で、芥川は特に、伯母のフキに可愛がられて、その熱心な養育を受けました。

芥川は伯母によって、幼い時から文字と数を習い、遊びとして本を読み聞かせてもらったり、民話や昔話を語ってもらったりしました。

また、一家は宇治紫山に一中節(都一中が京都で創始した人形浄瑠璃)を習っていましたが、紫山の息子から、芥川は小学校時代、漢学、英語、習字を教わっています。

幼い頃から、家の本箱にある草双紙を読んで育った芥川ですが、小学生の芥川に書物の面白さを教えたのは、近所の貸本屋でした。

僕に文芸を教へたものは大学でも図書館でもない。正にあの蕭條たる貸本屋である。僕は其処に並んでゐた本から、恐らくは一生受用しても尽きることを知らぬ教訓を学んだ。(「僻見」/1924年)

小学校時代から、芥川は仲間と回覧雑誌を作り、そこに小説などを書いて投稿していました。作中の「義仲論」は、芥川が中学校卒業前に書いたものです。

彼は其炎々たる革命的精神と不屈不絆(ふはん)の野生とを以て、個性の自由を求め、新時代の光明を求め、人生に与ふるに新なる意義と新なる光栄とを以てしたり。(…)彼の生涯は男らしき生涯也。(1910年)

作中に登場する、久米正雄、松岡譲、成瀬正一、菊池寛は第一高等学校時代の同期ではありますが、この頃はまだあまり親しくなく、文学の仲間として親密になっていくのは、大学に入ってからのことになります。

高等学校時代の親友は恒藤恭(つねとう きょう)で、後年、芥川の書いた回想「恒藤恭氏」(1922年)によれば、二人の関係は以下のようでした。

一高にゐた時分は、飯を食うにも、散歩をするにも、のべつ幕なしに議論をしたり。しかも議論の問題となるものは、純粋思惟とか、西田幾多郎とか、自由意志とか、ベルグソンとか、むづかしい事ばかりに限りしを記憶す。

 

②大学時代

1913年9月、芥川は東京帝国大学文学部英文科に入学しました。

作中にある第三次『新思潮』は翌1914年に出版されたもので、芥川は「老年」その他の小説などを発表しています。

また、大学時代、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』に酷く感動させられたと作中にありますが、これに関しては、「ジャアン、クリストフ ――余を最も強く感動せしめたる書――」(1916年)という文章が残されています。

唯、この頃読んだ本の中で、「余を最も強く感動せしめたる書」といへば、ジアン・クリストフです。何でも始めて読んだ時は、途中でやめるのが惜しくって、大学の講義を聞きに行かなかつた事が、よくありました。(…)それから読んでゐる合間々々には、よく日本の文壇の事を考へたものです。さうしてあの中に書いてある仏蘭西の文壇のやうに、日本のそれもより多くの新鮮な心もちのいゝ空気が、必要だと思ひ思ひしたものです。

他に、白樺派を代表する武者小路実篤に関して、「あの頃の自分の事」(1919年)の中に、以下の言及を探すことができます。

我々は大抵、武者小路氏が文壇の天窓を開け放って、爽な空気を入れた事を愉快に感じているものだった。恐らくこの愉快は、氏の踵に接して来た我々の時代、或いは我々以後の青年のみが、特に痛感した心もちだろう。

芥川が久米、松岡、成瀬、菊池と共に出した第四次『新思潮』(1916年)は、芥川にとって非常に意義深いものとなりました。

彼らはロマン・ロランの『トルストイ』を共同で翻訳し、出版の資金を得ましたが、その創刊号に載った「鼻」が夏目漱石に激賞されたことが、芥川が文壇デヴューするきっかけとなりました。

拝啓新思潮のあなたのものと久米君のものと成瀬君のものを読んで見ました/あなたのものは大変面白いと思ひます/落着があつて巫山戯てゐなくつて自然其儘の可笑味がおつとり出てゐる所に上品な趣があります/夫から材料が非常に新らしいのが眼につきます/文章が要領を得て能く整つてゐます/敬服しました。(夏目漱石から芥川へ)

 

(3)参考図書

芥川龍之介「私の文壇に出るまで」『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

 

(4)関連記事

芥川龍之介の生い立ち 作家の形成 - History for a Break

芥川龍之介「羅生門」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「文学好きの家庭から」 あらすじ/ノート - History for a Break