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芥川龍之介「大川の水」 あらすじ/ノート

芥川龍之介(1892~1927年)の「大川の水」は、1914年に発表されました。

発表時、東京帝国大学文学部英文科の学生だった作者は、翌年、同文学部の『帝国文学』誌上に「羅生門」を発表しています。

芥川の生家は本所にあり、すぐ近くを大川(隅田川)が流れていました。この景色が芥川の原風景であることが、今回の作品では語られています。

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

 

(1)あらすじ

自分は、大川端に近い町に生まれた。

家を出て、若葉に覆われた黒塀の横綱の小路を抜けると、すぐに、あの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出たのである。

幼い時から、中学を卒業するまで、ほとんど毎日のように、あの川を見た。真夏の日の昼過ぎ、水泳を習いに行く通りすがりに、嗅ぐともなく嗅いだ川の水の匂いが親しく思い出されるようである。

この三年間、自分は山の手の郊外の書斎で、静かな読書三昧に耽っていたが、それでも、月に二、三度は、あの大川の水を眺めに行った。

動くともなく動き、流れるともなく流れる、その大川の水の色は、慌ただしく動いている自分の心をも、寂しい、自由な、懐かしさに溶かしてくれる。そこで初めて、自分は純粋な本来の感情に帰ることができるのである。

大川の流れを見る度に、自分は教会の鐘の音と、白鳥の声とに暮れていくイタリアの水の都――ヴェネツィアの風物に熱情を注いだダンヌンチョの心持ちを、慕わしく思い出さずにはいられない。

ああ、その水の響きの懐かしさ。呟くように、拗ねるように、舌打つように、草の汁を搾った青い水は、昼も夜も同じように、両岸の岩崖を洗ってゆく。

しかし、自分を魅了するものは、その水の響きばかりではない。自分にとっては、この川の水の光はほとんど、何処にも見出し難い、滑らかさと暖かさとを持っているように思われる。

殊に、日暮れ時、川の上の水蒸気と夕空の薄明りとは、この大川の水に、ほとんど比喩を絶した、微妙な色調を帯びさせる。

自分は一人、渡し船の舷に肘をつき、その暗緑色のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出ているのを見て、思わず涙したのを、終生忘れないであろう。

もし自分に「東京」の匂いを問う人があるならば、自分は大川の水の匂いと答えるのに何も躊躇しない。

そればかりか、大川の水の色、水の響きは、自分の愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるが故に「東京」を、「東京」あるが故に、生活を愛するのである。

 

(2)ノート

①本所と大川

芥川の実父は新原(にいはら)敏三、実母はフクと言います。

しかし、生後8カ月頃、フクが精神に異常を来たしたため、芥川は実母の実家である芥川家で養育されました(実際の養子縁組は12歳の時)。

冒頭で、作者は「自分は、大川端に近い町に生まれた」と言っていますが、実際の出生地は実家のあった入船町(現在の築地近辺)です。

そのため、大川のある景色とは、芥川家の風景ということになります。ここで、芥川は8カ月頃から18歳までを過ごしました。

一方、作中には「山の手の郊外の書斎」ともありますが、これは、その後に引越した先の家のことです(生家は買い取られて、釣具屋になりました)。

芥川の生家の周辺は本所と言います。

芥川の誕生頃の本所には、お竹倉(堀に囲まれた広大な林)や大名屋敷が残っていました。また、山東京伝や鼠小僧次郎吉の墓で知られる回向(えこう)院も、ここにあります。

後に、芥川は「大導寺信輔の半生」(1925年)の中で、この本所への愛着を以下のように語っています。

彼は本郷や日本橋よりも寧ろ寂しい本所を――回向院を、駒止め橋を、横綱を、割り下水を、榛(はん)の木馬場を、お竹倉の大溝(どぶ)を愛した。

 

②「本所両国」

ところで、芥川が関東大震災後の本所を描いた作品に、「本所両国」(1927年)というものがあります。

以下、その中から、今回の作品の補足となる箇所を抜き出しておきます。

僕は生まれてから二十歳頃までずっと本所に住んでいた者である。明治二、三十年代の本所は今日のような工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的多勢住んでいた町である。(…)

殊に僕の住んでいたのは「お竹倉」に近い小泉町である。「お竹倉」は僕の中学時代にもう両国停車場や陸軍被服廠に変ってしまった。(…)

僕の水泳を習いに行った「日本ゆう泳協会」は丁度この河岸にあったものである。(…)しかし僕等の大川へ水泳を習いに行ったということも後世には不可解に感じられるであろう。(…)

僕は昔の両国橋に――狭い木造の両国橋にいまだに愛惜を感じている。(…)僕は時々この橋を渡り、浪の荒い「百本杭」や芦の茂った中洲を眺めたりした。中洲に茂った芦は勿論、「百本杭」も今は残っていない。「百本杭」もその名の示す通り、河岸に近い水の中に何本も立っていた乱杭である。(…)

 

(3)参考図書

芥川竜之介「大川の水」他『芥川竜之介随筆集』(岩波文庫)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

 

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