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from my dear Andromeda

芥川龍之介「父」 あらすじ/ノート

芥川龍之介(1892~1927年)の「父」は、1916年5月に発表されました。

同年の2月には、「鼻」が発表されています。「鼻」は、師である夏目漱石の激賞を受け、「芋粥」(9月)と「手巾(ハンケチ)」(10月)の二作で文壇デヴューを果たすきっかけとなりました。

今回の「父」は、芥川が中学四年生であった時の、能勢という友人のエピソードを回想したものです。

同作は翌1917年5月に刊行された単行本『羅生門』にも収録され、初期の良作の一つに数えることができます。

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

 

(1)あらすじ

これは、自分が中学の四年だった時の話である。

その年の秋、日光から足尾にかけて、三泊の修学旅行があった。学校の刷り物によれば、午前六時三十分上野停車場前集合とある。当日、私はろくに朝飯も食わずに家を飛び出した。

自分は上野行きに乗り、込み合っている中、やっと吊革を掴むと、後ろから誰かに肩を叩かれた。振り向くと、能勢五十雄(のせ いそお)であった。

能勢は、自分と同じ小学校から、同じ中学校へ入った男である。ちょっとした事には器用な性質(たち)で、身振りとか、顔つきとかで、人を笑わすのには、独特の妙がある。

他愛もなく話している内に、自分たちは停車場前へ来た。クラスの連中はまだ二、三人しか見えない。自分たちは待合室のベンチに腰をかけると、いつもの通り、勢いよく喋り出した。

その話には、旅行の想像、生徒同士の品質、教員の悪評などが盛んに出た。停車場にいる職人やらお上さんやらを、能勢が批評し始めたのは、この時である。

能勢の形容は、一番辛辣で、一番諧謔に富んでいた。と、自分たちの一人は、ある妙な男を発見すると、能勢の手をひっぱって、その評をせがんだ。

自分は横顔だけ見て、それが能勢の父親だということを知った。しかし、能勢は何でもないように、「あいつはロンドン乞食だ」と評した。自分は、その時の能勢の顔を見るだけの勇気を欠いていた。

後でそれとなく聞くと、能勢の父は息子が修学旅行へ行く所を、出勤の道すがらに見ようと思って、わざわざ停車場へ来たのだそうである。

能勢は、中学を卒業すると間もなく、肺結核にかかって、亡くなった。

その追悼式を、中学の図書室で挙げた時、制帽をかぶった彼の写真の前で、弔辞を読んだのは、自分である。「君、父母に孝に」。自分はその弔辞の中に、こういう句を入れた。

 

(2)ノートA(事実関係)

1916年2月、芥川が第四次『新思潮』誌上に発表した「鼻」は、師の夏目漱石の激賞を受けました。

それをきっかけとして、『新小説』に「芋粥」(9月)が、新人作家の登竜門『中央公論』に「手巾」(10月)が発表されます。

これら二作は、芥川の作品としては、回覧雑誌や同人雑誌ではなく、初めて公の一流雑誌に掲載されたものです。ここに、芥川の文壇デビューが達成されることになりました。

 

芥川龍之介「鼻」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「芋粥」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「手巾」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

今回の「父」は、その間の5月、『新思潮』誌上で発表されたものです。この作品は翌1917年5月、芥川の最初の単行本『羅生門』にも収録されています。

以下の引用からは、単行本刊行頃の作者の自信が窺われます。

自分は近来ますます自分らしい道を、自分らしく歩くことによつてのみ、多少なりとも成長し得る事を感じてゐる。従つて、屡々自分の頂戴する新理智派と云ひ、新技巧派と云ふ名称の如きは、何れも自分にとつては寧ろ迷惑な貼札に過ぎない。(「『羅生門』の後に/1917年)

一方で、芥川は既存の自然主義文壇の無理解と批判にも晒されていました。それに対する反論としては、1917年1月の「MENSURA ZOILI(メンスラ ゾイリ)」という作品があります。

しかし、文壇からの批判に晒されたことは、以下のように、芥川を弱気にもさせたようです(松岡譲宛て書簡/1917年10月)。

それから今後新聞雑誌の文芸批評は一切縁を切つてよまない事にするつもりだ あれを読んで幾分でも影響をうけないには余りに僕は弱すぎるから、さうして少しづつでもしつかり進むつもりだ

 

芥川龍之介「MENSURA ZOILI」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

(3)ノートB(個人的解釈)

ここからは、作品の個人的な解釈をごく簡単に記します(直観的に読んでいるだけなので、資料的な裏付けはありません)。

全集の脚注によると、今回の作品の初出時には、能勢の父が停車場にいた理由を説明し終えた所で、以下の文章が加えられていたそうです。

自分はその時うけた異常な感動を、今でもはつきり覚えてゐる。倫理の講義が教へる在来の道徳律は、或は自分に命じて、能勢のこの行為を不孝の名の下に、否定させやうとするかも知れない。しかしこの感動だけは常に自分を促して、飽くまでも能勢の為に、一切の非難を辨護させようとするのである。

ここで私が思い出したのは、『侏儒の言葉』(1923~25年)の中の、「修身」と題された以下の言葉です。

良心は我我の口髭のように年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得るためにも若干の訓練を要するのである。

あるいは、芥川は「良心は厳粛なる趣味である」とも言っています。

芥川の言う「良心」には、倫理的なものだけでなく、芸術的な含みもありそうに思われますが、ここで重要なのは、それが社会規範的なものではなく、あくまで個人的な感覚に基づいたものだということです。

これに関して、芥川の「梅花に対する感情」(1924年)の中に、以下の言葉を発見することができます。

予等は芸術の士なるが故に、如実に万象を観ざる可らず。少くとも万人の眼光を借らず、予等の眼光を以て見ざる可らず。古来偉大なる芸術の士は皆この独自の眼光を有し、おのずから独自の表現を成せり。

私は以前から、優れた芸術家や学者の、その優れたる所以(ゆえん)は、彼らの感覚的世界(内的な宇宙)にあると考えています。

最も精神的な滋養に富んだ作品や学説は、全て、彼らの感覚的世界に基づいた直観に拠っているものと、私は思います。もっとも、詩を除けば、その外観の多くは客観的な論証の形を取るものではありますが。

この点、芥川も「松浦一氏の「文学の本質」に就いて」の中で、以下のように言っています。なお、これは当時、東京帝国大学の文学部講師であった松浦氏の新著の印象を書き綴ったものです(1916年1月)。

先生は此信念を直下に他に証得せしめんが為に、屡々(しばしば)之を客観的論証の方便門より搬出した。自家の信念を他に移植せんとする者は、嫌でも之を分析と総合とに求める外は無い。先生の新著の皮と肉とを成す物は、実に此論理的正確を期せんとする論議である。

 

芥川龍之介「松浦一氏の「文学の本質」に就いて」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

ここで、ほとんど同じ時期に発表されている「猿」(1916年9月)と、今回の作品との間にある類似性を指摘しておきたいと思います。

この作品では、ある軍艦内で盗難事件が起こり、姿を隠した容疑者、信号兵の奈良島という男を捜索する場面が描かれています。

その時、候補生の主人公は友人と一緒に、以前、軍艦内に逃げ出した猿を捜索したことを思い出します。

しかし、石炭庫の入り口で見つけた、奈良島の追い詰められた、「恐ろしい」としか形容できない表情に、主人公は衝撃を受けました。

そして、彼は奈良島を猿呼ばわりしていたことを恥じたのです。

恐らく、私たちの倫理や「良心」とは、一つには、このような瞬間に、自分自身で発見した他者への理解(同情心)に基づいたものなのでしょう。

以上のように、同時期の二作には同じテーマが見られます。このことは、作者を理解する上で、非常に興味深い偶然と言えるのではないでしょうか。

 

芥川龍之介「猿」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

(4)参考図書

芥川龍之介「父」『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

関口安義『芥川龍之介 闘いの生涯』(毎日新聞社)

 

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