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芥川龍之介「老年」 あらすじ/ノート

芥川龍之介(1892~1927年)の「老年」は、1914年に発表されました。

当時、芥川は東京帝国大学文学部英文科に在籍していました。第三次『新思潮』に掲載された「老年」は、作者の作品で初めて活字化されたものなので、これを処女作とすることもできます。

初期の代表作「羅生門」は翌1915年、「鼻」が1916年の発表なので、今回の作品はそれらよりも、更に早い時期のものと言えます。

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

 

(1)あらすじ

隅田川のほとり、橋場の玉川(ぎょくせん)軒と言う茶式料理屋で、一中節の順講があった。

朝からどんより曇っていたが、昼には雪になって、日が暮れる頃には、庭の松に張っている雪避けの縄がたるむほど積もった。

が、ガラス戸と障子で二重に締め切った部屋の中は、火鉢の火照りで、のぼせるほど暖かい。中では、師匠の宇治紫暁(しぎょう)を上座に、何人かの男女が床の間の両側に座して、向かい合っている。

その右の列の末座に座っているのが、ここの隠居である。

隠居は房さんといって、一昨年還暦の老人である。十五で茶屋酒の味を覚え、歌沢の師匠もやれば、俳諧の点者もやるという具合であったが、今ではこの料理屋の楽隠居の身の上になっている。

今ではすっかり老い込んで、歌沢も、鶯も、芝居も止めてしまった。こうして、洒落気なく末座に座っている所を見ると、どうしても、一生を放蕩と遊芸に費やした人とは思われない。

それでも、六金さんという女が「浅間の上」の、艶めいた文句を語り出すと、目をつむったまま、絃(いと)の音に乗るように、小さく肩を揺すって、まるで昔の夢を見返しているようであった。

しばらくすると、隠居は一つ挨拶をして、座を外した。隠居の昔を知る者は、房さんの年を取ったことに驚いた。しかし、やがて柳橋の老妓の「道成寺」が始まると、座敷はまた静かになった。

これが済むと、小川の旦那の「景清(かげきよ)」である。旦那はその前に生卵か冷酒(ひや)でもやって、ちょっと意気地を出すつもりで、廊下へ出た。そこに、中州の大将が跡をつけて来た。

二人は一緒に小用を足して、廊下伝いに母屋の方へまわって来た。すると、どうやら右手の障子の中から、ひそひそ話声がするらしい。あの房さんが、女に、何か言って聞かせているのである。

――そもそもの馴れ初めがさ、歌沢の浚(さら)いで俺が「わがもの」を語った、あの時にお前が……

二人は、「房さんも隅へ置けない」と言い合って、もちろん、中に白粉の女でも勝手に想像すると、細目に開いている障子の中を、そっと覗き込んだ。

女の姿はどこにもなかった。代わりに、炬燵の上に、端唄(はうた)の本が二三冊広げられて、首に鈴を下げた小さな白猫が、香箱座りに座っている。

房さんは、禿げ頭を触れるばかりに猫に近付けて、一人、なまめいた語を繰り返していた。旦那と大将とは黙って、顔を見合わせると、長い廊下をしのび足で、座敷へ引き返して行った。……

 

(2)ノート

①字句解説

最初に、あらすじの中にあるいくつかの字句の意味を明らかにしておきます。

まず、一中節というのは、都一中という人物が、京都で創始した浄瑠璃です。三味線と語りで構成された歌の一種と考えてよいでしょう。

浄瑠璃には、他にも「~節」と呼ばれるものがありますが、作者は作中で、一中節の特徴を、「しぶいさびの中に、長唄や清元にきく事の出来ないつやをかくした一中の唄と絃」というように表現しています。

作品の場面は、一中節の順講の行われている茶式料理屋ですが、順講とは、一中節の師匠の下に弟子が集って、おさらいの演奏をすることだそうです。

作品では、師の宇治紫暁の下に弟子が集り、六金さんや小川の旦那などが順番に演奏している、と考えることができます。

一中節と聞いて思い出すのは、芥川家の環境です。というのも、芥川の養家・芥川家は江戸趣味の濃い家庭で、家族は宇治紫山という人物を師匠として、一中節を習っていたのです。

他に、端唄(はうた)、(先の引用の)長唄、清元は三味線音楽の一つですが、端唄は幕末の江戸で流行した、より通俗的なもので、房さんが若い頃親しんだらしい歌沢はその一種です。

 

②事実関係

1913年、芥川は東京帝国大学文学部英文科に入学しました。

翌1914年には、第三次『新思潮』に参加して、柳川隆之介のペンネームで、アナトール・フランスやイェーツの翻訳や、今回の「老年」や「青年と死と」などの小説を発表しています。

芥川は小学校時代から、仲間と回覧雑誌を作り、小説などを書いて投稿していましたが、初めて活字になった作品が「老年」であるため、これを芥川の処女作と見ることもできます。

また、作品の茶式料理屋は隅田川(大川)のほとりにありますが、隅田川は養家・芥川家にほど近い所にあり、芥川にとって原風景をなすものでした。

以下の文章は、「大川の水」(1914年)の冒頭部分です。

自分は、大川端に近い町に生まれた。家を出て椎の若葉に掩はれた、黒塀の多い横綱の小路をぬけると、直あの幅広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである。幼い時から、中学を卒業するまで、自分は殆毎日のやうに、あの川を見た。

なお、芥川の初期の代表作「羅生門」は、1915年11月、東京帝国大学文学部の『帝国文学』誌上で発表されています。

 

(3)参考図書

芥川龍之介「老年」『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

 

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