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from my dear Andromeda

芥川龍之介「鼻」 あらすじ/ノート

芥川龍之介(1892~1927年)の「鼻」は、1916年2月に発表されました。

この作品は師の夏目漱石に激賞され、芥川は「芋粥」と「手巾(ハンケチ)」を、それぞれ『新小説』と『中央公論』に発表する機会を得ることができました。

同作を発表した第四次『新思潮』に併せて掲載された以下の文章は、芥川の自信をよく表していると言えます。

僕はこれからも今月と同じやうな材料を使つて創作するつもりでゐる。あれを単なる歴史小説の仲間入をさせられてはたまらない。勿論今のが大したものだとは思はないが。その中にもう少しどうにか出来るだらう。(「編輯後に」)

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

 

(1)あらすじ

禅智内供(ぜんちないぐ)の鼻と言えば、ここ池の尾で知らない者はいない。

長さは五、六寸あって、顎の下まで下がっている。その形は、まるで細長い腸詰めのように、元から先まで同じように太い。

五十歳を超えた内供は、小僧の頃からいつも、この鼻を苦にしてきたが、もちろん表面上は、さほど気にならないような顔をして澄ましている。

内供がその鼻を持て余したのは、一つには、実際的に、鼻の長いのが不便だったからである。第一、長い鼻が邪魔で、飯を食うにも一人では食えない。

しかし、実はそれは、長い鼻を苦に病んだ主たる理由ではない。内供が実に苦しんだのは、この鼻によって傷つけられる自尊心の為であった。……

ある年の秋、京へ上った弟子の僧が、中国から渡って来た医者から、長い鼻を短くする方法を教わってきた。そこで、内供はわざと弟子の僧に説き伏せさせて、しぶしぶという様子で、その方法を試してみることにした。

その方法というのは、ただ、湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませるという簡単なものであった。

さっそく、熱い湯で茹でた鼻を、力強く弟子が踏んでいると、やがて粟粒のようなものが、鼻へ出来はじめた。すると、弟子は医者から聞いた通りに、それを毛抜きで抜いていった。

最後にもう一度茹で、内供がその鼻を鏡で見てみると、まるで嘘のように、鼻は短くなっていた。内供は鏡の中の鼻を見て、満足そうに眼をしばたたいた。

ところが、二、三日経つ内に、内供は意外な事実を発見した。以前と違って、周りの人間たちが、遠慮もなく笑うようになったのである。内供にはその理由が、はっきりとは分らなかった。

内供は日ごとに機嫌が悪くなって、二言目には、誰でも意地悪く叱りつけるようになった。そんな様子であるから、しまいには、鼻の療治をしたあの弟子でさえ、堪りかねて内供を悪く言う始末であった。

しかし、ある夜、内供が床の中でまじまじしていると、ふと鼻が何時になくむず痒いのに気が付いた。触ってみると、鼻は少しむくんで、そこだけ熱さえある。内供は、何か病が起こったかと思った。

翌朝、いつもの通り、早くに目を覚ますと、ほとんど忘れかけていた感覚が、内供に再び戻ってきた。慌てて手をやると、鼻は、上唇の上から顎の下まで、五、六寸あまりもぶら下がっている。

鼻は、一夜の内に、また元の通り長くなったのである。ところが、内供は鼻が短くなった時と同じような、はればれとした心持ちを感じていた。

こうなれば、もう誰も笑うものはいないのに違いない――秋風に長い鼻をぶらつかせながら、内供は心の中で、そう呟いた。

 

(2)ノートA(事実関係)

少し遡って、1915年11月、芥川は東京帝国大学文学部の『帝国文学』誌上に「羅生門」を発表しました。

同作は作者の自信作ではありましたが、発表当初はほとんど反響を得ることができませんでした。

「ひょつとこ」も「羅生門」も『帝国文学』で発表した。勿論両方共誰の注目も惹かなかつた。完全に黙殺された。(「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」/1919年)

 

芥川龍之介「ひょっとこ」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「羅生門」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

芥川が文壇デヴューを果たすきっかけとなったのは、翌1916年の「鼻」(2月)が師の夏目漱石に認められたことでした。

芥川の友人である成瀬正一の「成瀬日記」によれば、芥川は「羅生門」の発表後の18日、同じく友人の久米正雄と二人で、夏目漱石の漱石山房を訪問する機会を得ました。

夏目漱石は木曜日を面会日と決めていましたが、以後、芥川はその木曜会に参加するようになります。

芥川が仲間の成瀬、久米、松岡譲、菊池寛と共に刊行した第四次『新思潮』(1916年)は、第一に、夏目漱石の目に触れることを目標としていました。

同誌の創刊号を公刊するため、彼らはロマン・ロランの『トルストイ』を分担して翻訳することで資金を得ました。その創刊号に、芥川は「鼻」を載せたのです。

夏目漱石は「鼻」を高く評価してくれました。その手紙にある漱石の言葉は、以下のようでした。

拝啓新思潮のあなたのものと久米君のものと成瀬君のものを読んで見ました/あなたのものは大変面白いと思ひます/落着があつて巫山戯てゐなくつて自然其儘の可笑味がおつとり出てゐる所に上品な趣があります/夫から材料が非常に新らしいのが眼につきます/文章が要領を得て能く整つてゐます/敬服しました。

同作発表の翌月、『読売新聞』の新刊紹介欄では、第四次『新思潮』の創刊が告知されると共に、「夏目漱石氏が激賞せしてふ芥川龍之介小説「鼻」は材を平安朝にとりしもの。本号の白眉なるべく」と書かれました。

これきっかけに、芥川は鈴木三重吉の『赤い鳥』に「芋粥」(9月)を、新人作家の登竜門『中央公論』に「手巾(ハンケチ)」(10月)を発表する機会を得ました。

そして、この「芋粥」と「手巾」の二作により、芥川は新人作家として文壇デヴューを果すことができたのです。

 

芥川龍之介「芋粥」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「手巾」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

(3)ノートB(個人的解釈)

ここからは、作品の個人的な解釈をごく簡単に記します(直観的に読んでいるだけなので、資料的な裏付けはありません)。

この作品の解釈的な問題の中心となるのは、もちろん、なぜ内供は鼻が再び長くなって喜んでいるのか、という問いだと思います。

あらすじには盛り込めませんでしたが、実際に作品を読んでみると、内供の鼻が再び長くなった早朝の情景は、以下のように描写されています。

寺内の銀杏や橡(とち)が、一晩の中に葉を落したので、庭は黄金(きん)を敷いたように明い。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光っている。

そして、内供は長い鼻を「あけ方の秋風にぶらつかせながら」、「こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない」と、心の中で呟くのです。

普通に読む限りでは、何か清々しい印象を、読者は抱くのではないでしょうか。

この辺りの描写に関して、私が事実関係を書く上で参照している参考図書(後述)の関口氏は、以下のように書いています。

語り手の背後にいる作者は、他人の目を絶えず気にする小心な五十男を開き直らせ、現実の中で精いっぱい生き抜く方向を指示している(…)

すなわち、関口氏は当時の作者の生涯史的な事実を踏まえつつ、「鼻」に表現されている主題を、「他人の目からの解放」と捉えるのです。

実際、素直に読めば、そういう解釈も成り立つものか、と私は思います。

しかし、様々な個性と自由の認められた、令和に生きる現代人の一人としては、内供が関口氏の言う「他人の目からの解放」を本当に享受しているようには、どうにも思えません。

これも、あらすじでは省略せざるを得ませんでしたが、芥川は、鼻の短くなった内供を笑う周囲の人間の心理を、以下のように説明しています。

人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。

作者はこのように言っていますが、個人的には、今一つ共感できない心理であるように感じられます。

そこで、私は芥川の説明をもう少し単純化して、次のような、おそらく現代人にも理解されるであろう心理を、代わりに考えます。

これは、非常に簡単なもので、例えば、私たちが高校生であるとして、普段お洒落とも何とも思われないような異性が、急に髪型をよくしてきた時――

こういう時、私たちはどうにも、何か妙な感じを抱かないでしょうか。もちろん、社交上は褒めることもあり、また、実際によくなったとも思うのですが、注意していても残ってしまう、おそらく、感情の負の部分。

私たちはおそらく、私たち自身が意識しているよりも、他人の身だしなみや行動が「身の丈に合っている」かどうかに、敏感なのだと思います。

それは、もちろん勝手な印象であって、大人としては、そんなことで人を悪く言ったりはしません。しかし、そのような心理が集団化した時、私たちの間に、必ずしも自制が働くとは限らないのが、人間というものです。

他人の見せた洗練、改善、努力を否定し、代わりに、元の低い状態に引きずり下ろそうとする心理、芥川が作中で言っている「傍観者の利己主義」とは、このようなものではないかと、私は考えています。

もし、「鼻」に見られる「他人の目」が以上の如きものだとすれば、再び鼻が長くなったことを喜ぶ内供の姿に認められるのは「解放」なのでしょうか。

これは、まったく現代人的な勝手な解釈かもしれませんが、他人の頭の中にある「身の丈」に自分を調節して安心しているような生き方は、各人に必要な発展性を欠いており、なかなか、自由とは言い難いものです。

 

(4)参考図書

芥川龍之介「鼻」『羅生門・鼻』(新潮文庫)

芥川龍之介「編輯後に」『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

 

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