History for a Break

from my dear Andromeda

マルクスとエンゲルスの出会い

宇宙人のliynだよ。

 

1844年の暑い夏の日、二人の特異な人類がパリで出会ったよ。

 

科学的な社会主義を創始したマルクスとエンゲルスだ。19世紀の歴史を調査している以上、僕は社会主義への理解を深めるべきだろうね。

 

二人のドイツ人は、パリ王宮前広場にある有名なカフェで待ち合わせした。エンゲルスの方は早くマルクスの話を聞きたくてうずうずしていたようだ。

 

マンチェスター

1842年から約2年間、エンゲルスはイギリスのマンチェスターにいた。

 

父の所有する工場で経営見習いをするためだ。

 

ここで、エンゲルスはイギリスの労働運動――オーエン主義とチャーチスト運動に触れることになったんだ。

 

エンゲルスは、物質的な利害関係が対立の原因になっていること、今や勝利するのは資本家ではなく労働者であるだろうことを感じ取った。

 

批判

この日、マルクスは青年ヘーゲル派の人たちを批判した。

 

ヘーゲルと言えば弁証法、そして、人間(精神)と世界を統一的に捉えるような視点にマルクスは注目していたよ。

 

一方で、青年ヘーゲル派は観念論に陥っていると、マルクスは批判した。

 

つまり、彼らは人間の意識から世界(自然、物質)を説明したんだけど、実際は反対が正しいとマルクスは考えたんだ。

 

フォイエルバッハ

フォイエルバッハもまた、青年ヘーゲル派の一人ではあった。

 

しかし、マルクスは彼の唯物論に興味を示す。

 

フォイエルバッハは、人間は自然の創造物であり、自然があり、人間の精神や意識があるのだという順序で物事を考えたよ。

 

シュレジエン

マルクスは1843年からパリに住んでいた。二人は彼の家に場所を移した。

 

1844年6月、ドイツのシュレジエンで労働者の蜂起があった。これは、ドイツで起きた労働者の蜂起の最初期の事例なんだ。

 

ある日、一人の織工がある流行歌を歌った廉で投獄された。労働者たちは工場に押しかけて暴動を働き、軍隊に鎮圧されたようだ。

 

マルクスはこれを重要視した。

 

ドイツの労働者は今や、自分たちを虐げているのが資本家であり、社会に革命を起こすのは地主貴族の政府でも、政府と妥協する資本家でもないことを知っている、というわけだね。

 

思想

先の説明の通り、マルクスはフォイエルバッハに注目していた。しかし、彼の主張に満足はしていなかったようだ。

 

フォイエルバッハは宗教を批判したんだけど、彼は宗教は人間の作り出したものだと主張したよ。

 

でも、マルクスは更に遡って、人間は社会が作り出しているというところまで視野を広げたいと思ったんだ。

 

そして、その社会は物質的利害関係の衝突に他ならないという点で、マルクスとエンゲルスはすぐに一致したんだね。

 

宗教も、けっきょくはこの社会の現実の反映であり、宗教の土台はこの社会の中にあるのだ。国家は、人民にその苦しい生活をどうにもならぬとあきらめさせ、天国に救いをもとめさせるために宗教を利用してお祈りさせているわけだ。つまり、宗教は人民のアヘンなのだ。

 

革命

マルクスはパリで経済学に没頭したと言っているよ。

 

そこで、彼は生産手段を所有する資本家ばかりが富み、生産を担う労働者は搾取されるのみだという現実に気が付いたらしい。

 

フランス革命の歴史は、マルクスに労働者による革命が必然であることを教えているように思われた。

 

ヘーゲルの言った通り、歴史は低い所から高い所へ上昇し、古いものは、それが抑圧を強めた時、革命によって打破されるというわけだね。

 

そして、今や私有財産制が廃止されるべき時だと彼は考えたんだ。マルクスはこれを人間解放と呼んだんだね。

 

今回はここまでにしよう。

 

History for a Break

このブログでは、アンドロメダからやって来た宇宙人のliynが、歴史、文学、世界、宇宙などをテーマに調査を行っているよ。

 

簡単な記事を投稿をしていくから、たくさん読んでほしいな。

 

Series

Ⅰ. ロバート・オーエンとニューラナーク工場

Ⅱ. マンチェスター時代のエンゲルス

Ⅲ. 若き日のカール・マルクス

Ⅳ. This article.

 

Reference

土屋保男『マルクス エンゲルスの青年時代』(新日本出版社)

ヴィクトリア女王の1850年代

宇宙人のliynだよ。

 

J.B.プリーストリーという作家を知っているかな?

 

日本では『夜の来訪者』(1945年)などで知られる彼は、19世紀中頃をヴィクトリア朝の全盛期と考えたよ。

 

1850年までに、女王は7人の母親になっていた。また、53年と57年にも出産して、女王は生涯で9人の子どもを産んだんだ。

 

共和派のチャーチスト運動が女王の退位を主張するような状況があったけど、1850年代に女王は君主としての自信を深めていったらしいね。

 

今回は、ヴィクトリア朝の1850年代を簡単にまとめておくね。

 

パーマストン

1850年代初頭の首相はホイッグ党のラッセル卿だった。

 

外相はパーマストンで、国際政治史ではパーマストン外交の名は有名だね。

 

40年代の終わりには、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン公国の統治の問題を巡って女王と外相が対立していた。

 

パーマストンはデンマークではなくプロイセンの主導権を主張する女王の意見と対立した。結局、彼は辞任しなければならなかった。

 

鉄道

イギリスでは1825年にストックトン-ダーリントン間の鉄道が開通している。

 

1852年には国内の鉄道総延長は1万㎞に達したようだ。

 

この時代の主要駅はどれも建築物としても価値のあるものだった。

 

1867年に完成したロンドンのセントパンクラス駅はヴィクトリアン・ゴシック様式で、線路とホームは、ガラスと鋼鉄でできた屋根で覆われていた。

 

駅の設計に新しい素材が使われたんだね。

 

通信技術

1830年代、アメリカ人のモールスなどの発明家が電信技術を発展させた。彼はモールス信号を発案したことでも知られているね。

 

イギリスでもこの時期に、電信技術が実用化に向かっていったよ。

 

1851年にはイギリス海峡の海底に電信ケーブルが設置され、65年にはイギリスからインドまでのケーブルが敷設された。

 

電信技術は報道の在り方を大きく変えたよ。

 

クリミア戦争(1853~56年)では、現地からロンドンまで最新の情報が届くまでの時間が大幅に短縮されたようだ。

 

万国博覧会

女王の夫アルバートの最も著名な功績は万国博覧会の開催だ。

 

ガラスと鋼鉄で設計された会場は水晶宮(クリスタル・パレス)と呼ばれ、ハイドパークの中に建設された。

 

展示品の数々はとても列挙しきれないけど、東インド会社の展示品の中には、宝飾品、カップ、水煙管、剣、楯、鞍袋、書き物机が含まれていたよ。

 

クリミア戦争

ロシアの拡張主義が、黒海とアフガニスタンでイギリスを警戒させていた。

 

1853年、ロシアがオスマン帝国領への侵攻を開始した。英仏は合同で宣戦布告、クリミア戦争が勃発した。

 

セヴァストポリ要塞での攻防は熾烈を極めたようだね。

 

この戦争はナイチンゲールの活躍で知られているよ。彼女は38人の看護師を率いて野戦病院で働き、その衛生環境の改善に努めたんだ。

 

インド大反乱

1857年、東インド会社のインド人傭兵が反乱を起こした。

 

背景にはイギリス人の現地での横暴な態度があるけど、直接的な原因は、ライフルの薬莢に使われた獣脂にあった。

 

薬莢に牛や豚の脂を使用することは、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒への侮辱となるからだね。

 

反乱後、東インド会社に任されていたインドは本国が統治することになった。

 

ヴィッキー

1858年、ヴィッキーの愛称で知られる第一王女ヴィクトリアが、プロイセンのフリードリヒ皇太子と結婚した。

 

よくできた娘を溺愛していた両親は動揺したらしいね。

 

結婚式は女王とアルバートの時と同じく、セントジェームズ宮殿の王室礼拝堂で行われた。メンデルスゾーンの<結婚行進曲>がそれを祝福したよ。

 

翌59年、初孫ヴィルヘルムが誕生する。

 

しかし、彼は後にヴィルヘルム2世として即位してイギリスと対立、第一次世界大戦に突入していくんだ。

 

自信

1850年代の終わり、女王は自身が抱いている自信を次のように語った。

 

わたくしの祝福された結婚は、この国とヨーロッパにあまねく幸せをもたらしました! わたくしの愛する、完璧なアルバートに、欠けているところがあるでしょうか? 君主制を尊敬の極みにまで引き上げ、わが国ではこれまでにないくらい、国民に受け入れられる存在にしてくれたのです。

 

今回はここまでにしよう。

 

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簡単な記事を投稿をしていくから、たくさん読んでほしいな。

 

Series

Ⅰ. ヴィクトリア女王の時代Ⅰ 即位

Ⅱ. ヴィクトリア女王の時代Ⅱ テクノロジー

Ⅲ. ヴィクトリア女王の時代Ⅲ 戦争

Ⅳ. ヴィクトリア女王の時代Ⅳ 女王の結婚

Ⅴ. ヴィクトリア女王の時代Ⅴ 都市と貧困

Ⅵ. This article.

 

Reference

デボラ・ジャッフェ『図説 ヴィクトリア女王』(原書房)

ジョン・D・ライト『図説 ヴィクトリア朝時代』(原書房)

若き日のカール・マルクス

宇宙人のliynだよ。

 

僕は今19世紀の歴史を調査する一環で、マルクスとエンゲルスという2人の社会主義者について調べているんだ。

 

前回の記事では、マンチェスターへ工場経営の見習い修行に行くエンゲルスの足取りを辿ったよ(1842年)。

 

しかし、今回はもう少し前に遡って、マルクスの少年、学生時代について語っていこうかと思うんだ。

 

トリーア

エンゲルスの故郷がバルメンである一方、マルクスの故郷はドイツ南西部の町トリーアだ。ブドウ酒の産地として有名だね。

 

 

このモーゼル河畔の古都は、1801年にナポレオン治下のフランスに編入され、後にプロイセン領となった。

 

トリーアの人々はフランス革命の影響を受け、自由と平等の進んだ信念を共有していたけど、プロイセンの支配下で重税と抑圧に苦しんだんだ。

 

サン・シモン

少年時代のマルクスは知り合いのフォン・ヴェストファーレン男爵の書棚に入り浸りだったみたいだ。

 

男爵は少年にホメロスやシェークスピアを語って聞かせてくれた。それで、マルクスは特に詩が好きになったんだ。

 

また、マルクスは男爵を通して、フランスの社会主義者サン・シモンの影響を受けたかもしれない。

 

サン・シモンは産業の力を高く評価し、国家の役割として産業の管理を挙げた。労働は能力に応じ、報酬は働きに応じるべきと考えたよ。

 

七月革命

フランスで七月革命(1830年)が起きた時、マルクスは12歳だった。

 

フランス政府は野党の進出を恐れて選挙法を改悪、言論・出版の自由を侵害したことから、革命が起こったよ。

 

革命の結果、シャルル10世が退位することになって、ブルボン朝が終わった。代わりに王位についたのはルイ・フィリップだ。

 

下はドラクロワの<民衆を導く自由の女神>だ。これは、七月革命を描いたものと言われているよ。

 

Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple

 

ボン大学

1835年、マルクスはライン河を蒸気船で上り、ボンに到着した。

 

プロイセン領のボンはボン大学の町として賑わっていた。

 

マルクスは弁護士になるため、法学を学びにボン大学へやって来たんだけど、次第に彼の関心は詩や哲学に移っていったようだ。

 

しかし、シェリングの流れを汲む同大学の哲学は、マルクスにはチンプンカンプンだったらしいね。

 

シェリングにとって哲学とは世界を支配する原理を明らかにする学であり、精神も自然も「自覚」に向けて段階的に発展していくものだった。

 

結婚

マルクスはボン大学を一年で切り上げ、ベルリン大学へ移った。

 

この頃、彼はフォン・ヴェストファーレン男爵の娘イェニーと結婚した。

 

年上との、また平民とイギリス貴族の血を引く男爵家の娘との結婚は、当時では異例だったみたいだ。

 

ヘーゲル

学生マルクスはヘーゲルを徹底的に研究したよ。

 

彼にとって、カントやフィヒテの観念論は主観だけに注目し、現実の働きを無視している点で気に入らないものだった。

 

一方、ヘーゲルには精神や現実を統一的に捉えようとする視点があるように、彼には思われたんだね。

 

青年ヘーゲル派

この頃のマルクスは、青年ヘーゲル派なる一派に属していたんだ。

 

老ヘーゲル派がヘーゲルの体系で哲学は完成したと主張し、プロイセン国家を支持したのに対して、青年ヘーゲル派は哲学と国家の不断の進歩を主張した。

 

同派の人物に、マルクスの年長の友人ブルーノ・バウアーがいる。

 

彼はキリスト教を批判して、キリスト教は幻想に過ぎないだとか、不安で不幸な人間のでっち上げだとか主張したんだ。

 

ニーチェの「神は死んだ」じゃないけど、すごい時代になったよね。1859年の『種の起源』(ダーウィン)以前の、無神論の徴候と捉えられるね。

 

今回はここまでにしよう。

 

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Ⅰ. ロバート・オーエンとニューラナーク工場

Ⅱ. マンチェスター時代のエンゲルス

Ⅲ. This article.

Ⅳ. マルクスとエンゲルスの出会い

 

Reference

土屋保男『マルクス エンゲルスの青年時代』(新日本出版社)

マンチェスター時代のエンゲルス

宇宙人のliynだよ。

 

僕のワークの一つは地球の歴史の調査だ。特に、最近は19世紀の歴史を重点的に調べる方針でいるよ。

 

最近の地球人は月や火星に仲間を送ろうと計画しているけど、そのための技術革新がスタートしたのが、この時代なんだよね。

 

さて、僕が今調べているのは、マルクスとエンゲルスだ。1848年の『共産党宣言』の名前は知っている人が多いだろうね。

 

今回、僕たちは1842年まで歴史を遡ることになるよ。

 

この年、青年エンゲルスがイギリスのマンチェスターへ旅立つんだ。

 

旅立ち

1842年の秋、エンゲルスは故郷のバルメンを去った。工場経営の見習いのためにマンチェスターへ向かうのだった。

 

父親はバルメンの工場主で、マンチェスターにも工場を持っていたよ。

 

母と妹に見送られながら、彼は一度、ケルンへ立ち寄ることになる。

 

 

マルクスとの出会い

ケルンは人口7万人を擁する都市だ。

 

ケルンに着いた青年は、顔見知りのライン新聞社を訪ねたよ。それはマルクスに一目会うためだった。

 

ただ、マルクスの反応は思いのほかそっけなかったらしい。

 

エンゲルスがマンチェスターへ向かうことを告げると、編集者の一人ヘスはイギリスの情勢について、次のように述べた。

 

あそこでは、金持ちと貧乏人の対立がこのうえなく激しくなっている。この病気の根はいつ暴動になって爆発するかわからん状態だ。どんな政府ができてもこれをなおしえないほど対立は深刻だ。

 

確かに、景気の優れないイギリスは、穀物法、アイルランド問題、チャーチスト運動などの対立の種をたくさん抱えていたんだ。

 

マンチェスター

繊維の町マンチェスターは、1842年には人口40万人を誇った。

 

1789年に綿紡績で蒸気機械が導入されて以来、この町は目覚ましい発展を遂げ、1830年には港町リヴァプールと鉄道で繋がっているよ。

 

 

マンチェスターの工場主たちはみな自由貿易の支持者で、穀物法に反対だった。

 

穀物法は輸入穀物を制限して、国内の穀物価格を吊り上げる政策だね。

 

これは地主には利益があったんだけど、労働者へ賃金を支払う工場主にとっては生活費高騰の原因で、見過ごせないものだった。

 

労働運動

エンゲルスはこの町で、オーエン主義とチャーチスト運動を目撃した。

 

オーエン主義はロバート・オーエンの思想を受け継いだもので、各人の能力を伸ばせるような理想的な共産社会を主張したよ。

 

一方、チャーチスト運動は労働者のための運動で、労働者の保護や人口に比例した選挙区の見直しなどを要求し、ストライキも行ったんだ。

 

思想

イギリスでは、地主貴族の支持するトーリー党、商工業者の支持するホイッグ党、労働者の支持する民主主義党が対立していた。

 

エンゲルスはここに、物質的利害関係の衝突を見たよ。

 

更に、エンゲルスは物質的利害関係とはそもそもなんだろうか、イギリスで起こり得る革命とはなんだろうかと考えたんだ。

 

彼は後にマルクスとともに、社会主義運動を科学的に裏付けることになる。今やエンゲルスの関心は、新しい経済学にあったんだね。

 

今回はここまでにしよう。

 

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Ⅰ. ロバート・オーエンとニューラナーク工場

Ⅱ. This article.

Ⅲ. 若き日のカール・マルクス

Ⅳ. マルクスとエンゲルスの出会い

 

Reference

土屋保男『マルクス エンゲルスの青年時代』(新日本出版社)

ロバート・オーエンとニューラナーク工場

宇宙人のliynだよ。

 

地球の19世紀に興味のある僕は、これから2人の社会主義者マルクスとエンゲルスの調査を始めるところなんだ。

 

マルクスとエンゲルスと言えば、1848年の『共産党宣言』だね。

 

彼らの社会主義が科学的と言われるのに対して、その先駆者の社会主義は空想的と呼ばれることがあるよ。

 

イギリスのロバート・オーエン、フランスのフーリエ、サン・シモンが空想的社会主義の代表的人物だ。

 

今回僕は、オーエンについて参考になる図書を見つけたんだ。だから、最初にそれをまとめておきたいと思う。

 

産業革命

イギリスの産業革命は1760年頃から始まった。

 

糸や織物の産業が盛んになったのはいいんだけど、羊毛の生産のために農民が土地から追い出されたり、職人が職を失ったりもしたよ。

 

そこで、イギリスの一部であるスコットランドやアイルランドでは、比較的賃金の高いアメリカへ移住する人が増えていたんだ。

 

ニューラナークの綿糸紡績工場の元々の持ち主デール氏は、ある日、アメリカへの移住に失敗した労働者を大量に雇い入れた。

 

しかし、高齢や跡継ぎの息子の不在で、デール氏は工場を手放すことを考える。

 

青年

デール氏の下にオーエンという青年がやって来て、工場の購入を申し出た時、彼は若いオーエンを信用しなかった。

 

しかし、結局はオーエンに工場を売り渡すことになるんだね。若者の共同経営者が思いのほか立派な人だったからだ。

 

しかも、デール氏は自分の娘までオーエンに貰われてしまったらしい。

 

下は、1800年のオーエンの肖像だ。

 

Mary Ann Knight - Robert Owen, 1771 - 1858. Pioneer socialist - Google Art Project

 

改革

クライド滝の下手の川の右岸、ニューラナークには工場4棟と、4階建てのブロック住宅が立ち並んでいた。

 

川の水は、水力の紡績機を動かすのに必要だった。オーエンは生産の効率化や機械の新調を進めたよ。

 

それだけではなく、彼は労働者のために工場医を雇ったり、児童の教育や養老年金などの福利厚生を整えたんだ。

 

他の記事でも説明したけど、19世紀頃の貧困は、怠惰、酒、ギャンブルなどの結果の自己責任と考えられていて、共感が少なかった。

 

でも、オーエンは工場内の犯罪や他の害をなす行為を、境遇のためだと考えて罰しなかったんだ。児童教育に力を入れたのはそのためだね。

 

オーエンは次のように言っているよ。

 

環境がつくりだしたものである悪や罪をだれがいったい罰したり、責めたりできましょう。だいじなことは、人間が環境の産物であることをはっきり認めて、悪や罪を生む環境を変えることです。

 

思想

ここで、オーエンの思想を簡単に確認してみよう。

 

宗教に否定的な彼は、次のように語っているよ。

 

どの宗教も、キリスト教も、マホメット教も、仏教も、すべてこう教えます。人が罪を犯したり堕落したりするのは、その人自身が悪いのだ、その人に責任があるのだ(...)。しかし何度も申しますように、責めはその人にではなく、境遇にあるのです。

 

また、オーエンはベンサムの最大多数の最大幸福の考えを批判したんだ。

 

彼によれば、ベンサムの考え方は原子論的で争いに繋がり得るから、人が幸福になるには、個々人がバラバラにではなく、協同しなければならない。

 

オーエンは罪の背後に境遇という原因を仮定し、人と人の協同を幸福の前提と考えたんだね。思想に人柄がよく表れているようだね。

 

ニューハーモニー村

ニューラナークの次にオーエンが情熱を注いだのが、アメリカのニューハーモニー村だった。彼はこの共産社会の理想化を目指したよ。

 

しかし、共同体が無差別に入植者を受け入れると不和が起こり、経済的にも経営が難しくなってしまった。

 

オーエンが村を去ったのは1827年のことだ。

 

ただ、オーエンの試みは他の人に受け継がれ、イギリスでもオーエン主義者が活動を続けた。彼らは後に、青年エンゲルスにも影響を与えるんだ。

 

なお、下は50歳頃のオーエンだ。

 

Portrait of Robert Owen

 

今回はここまでにしよう。

 

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Ⅲ. 若き日のカール・マルクス

Ⅳ. マルクスとエンゲルスの出会い

 

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土屋保男『マルクス エンゲルスの青年時代』(新日本出版社)