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from the planet earth

【考察】芥川龍之介「人生は地獄よりも地獄的である。」の意味

僕は大学生の頃から芥川龍之介のファンですが、パラパラと読みたい時は大体「或阿呆の一生」か『侏儒の言葉』を読みます。

 

どちらも芥川の思想や人生が短い文章にぎゅっと詰まっているからです。

 

特に、箴言集『侏儒の言葉』は名言の宝庫のような作品で、飽きません。

 

今回の「人生は地獄よりも地獄的である。」という言葉も、『侏儒の言葉』の中にあるものです。

 

その意味

先の言葉は読者の目を引き、記憶に残りやすいですが、それが含まれる「地獄」と題された文章全体の意味は、普通に読む限りでは案外単純です。

 

つまり、地獄の苦しみは一定の法則を破らない、予測可能なものですが、現実の人生の苦しみは、やって来るとも来ないとも分からないということです。

 

もう少し言葉を変えると、いい時も悪い時もあるということです。意外と当たり前のことを言っていますね。

 

芥川はそれを何人も容易に順応できない「無法則の世界」と言っています。

 

順応

いい時もあるのに何故「人生は地獄よりも地獄的」なのでしょうか。

 

いい時もあるからこそ悪い時がより際立つ、のような考え方も成り立ちますが、どこか月並みですし、芥川がそんなこと言っているようには読めません。

 

そうではなく、芥川は<順応できないから>より地獄的なのだと言っていると僕は考えます。なお、地獄的というのは苦しいという意味です。

 

苦しみは辛いので、予め順応して頭と心を準備させておかないと耐えられないと言いますか、そうすればなんてものでもないという渇いた考え方です。

 

僕はもう少し若い頃、最初から劣悪な環境で生きて行ければ、最悪何も出来ないということはないという思考で、やりたくもない肉体労働をやっていましたが、何か近しいものを感じます。

 

後半部分

もし地獄に堕ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯を掠め得るであろう。いわんや針の山や血の池などは二、三年そこに住み慣れさえすれば、格別跋渉の苦しみを感じないようになってしまいそうである。

 

文章の後半部分の引用ですが、ここには二つの要素があると思います。

 

まず、芥川は法則さえ分かっているのであれば、地獄のそれさえ騙し得ると考えていることです。これは、頭脳的な順応とでも言いましょうか。

 

更に、芥川は苦しみも慣れてしまえば問題ないとでも言いたげです。こちらは、心的な順応と言えるでしょう。

 

どちらにせよ、芥川は苦しみに対してこなれた自信を見せてくれています。その挑戦的な姿勢がこの文章全体の面白さと言えるかもしれません。

 

人生観

苦しみを苦しみと感じないために頭を使い、心の働きを止めておくという生き方を僕は心のどこかでは理解しますが、共感はしないと言いたいです。

 

なんにせよ、芥川がどこか人生を割り引いて見ているのは間違いなさそうです。

 

例えば、「瑣事」と題された文章には以下のようにあります。

 

人生を幸福にするためには、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、―あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。

 

これは、心を働かせている人にしか日常の瑣事の美しさ、それから得られる幸福は分からないが、そのような人は同時にあらゆることに苦痛を感じやすいものだという意味です。

 

他にも、「あらゆる神の属性中、最も神のために同情するのは神には自殺の出来ないことである」とか、「しかも星の我我のように流転を閲するということは―とにかく退屈でないことはあるまい」などとも言っています。

 

慣れ

人生を最もつまらなくするものは、恐らくは「慣れ」です。

 

より正確に言えば、「慣れてしまったという勘違い」です。心の感度は上げ続けないとどうしても人生を楽しめないと思います。

 

とは言え、先ほどの「瑣事」は結構刺さります。心を全開にして生きて行くのも確かに辛いですから。

 

結局、休息も手抜きもなければ成り立ちません。この辺り、芥川がこんなことを言ってくれています。

 

自由意志と宿命とに関わらず、神と悪魔、美と醜、勇敢と怯懦、理性と信仰、―その他あらゆる天秤の両端にはこういう態度をとるべきである。古人はこの態度を中庸と呼んだ。中庸とは英吉利のgood senseである。

 

中庸、すなわちgood senseとは、「今自分にとって必要なもの? そんなこと自分で考えれば分かるでしょ?」という意味......と僕は思います。

なぜ李徴は虎になったのか?その理由とは?【「山月記」解説】

中島敦は1909年に生まれ、肺を病んでいたことから、太平洋戦争さ中の1942年に亡くなりました。

 

彼の「山月記」は高校の教科書に長らく採用されており、僕たちの多くがその作品を味わった経験を持ちます。

 

一方で、主人公が虎になるという物語の筋に、多くの読者が小説らしい興味を感じると同時に、なぜ彼は虎になったのかという疑問を抱くようです。

 

なぜ李徴は虎になったのか?

李徴が虎になった理由については、彼自身が作中でそれなりの説明をしてくれていますので、まずはその通りに読んでいきましょう。

 

彼は以下のように言っています。

 

己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、噴悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使いであり......己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。

 

キーワードは「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」です。李徴はほとんど同じ意味でこの二つの言葉を使っているようです。

 

もし、なぜ李徴が虎になったのかという問いに簡潔に答えるのであれば、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心のため」と言っていいでしょう。

 

妻子を苦しめ

もしかすると、少なからぬ読者が虎になるという李徴の運命を、自業自得や罰という言葉で理解しているかもしれません。

 

そうだとすると、なぜ李徴は虎になったのかという問いの答えは、例えば「妻子を苦しめたから」というようになるでしょう。

 

これは、決して間違いではないと思います。

 

しかし、少し厳しめに考えてみると、妻子を苦しめたということは、李徴の「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」という「猛獣」が、他者に対して向かった事例の中の一つに過ぎないとも言えます。

 

なので、より根本的には、妻子を苦しめたといったような具体的な行為を原因とするのではなく、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」という心理的な衝動がそのまま虎に化けたといったように考えるとよいです。

 

切磋琢磨

高校生の時、僕はソフトテニス部でした。

 

しかし、僕はヘタクソだったので試合が嫌で仕方ありませんでしたし、やはり男子なので負けるのが格好悪いように感じていました。

 

僕は全く練習しなかったわけではないですが、練習中は少しおどけた感じや不真面目な感じを出してしまいましたし、結局部活は辞めてしまいました。

 

僕にとって部活はあまり大事なことではありませんでしたが、僕の心理は詩という勝負すべきもので切磋琢磨できなかった李徴のそれに似ていたと感じます。

 

李徴は以下のように言っています。

 

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

 

努力

最近の僕は、歌やギターを練習したり、ブログを書いたり英語の勉強をしたりしているのですが、努力って怖いですよね。

 

だって、「結果が出ない」という結果が出るかもしれないですから。

 

そこに「自分は特別である」という確信が加わると、李徴が誕生します。実際、李徴の見ている世界は決して世間並みではないのでしょう。

 

しかし、中島敦は中々辛辣で、李徴に彼の詩を披露させておいて、その友人に次のように言わせています。

 

成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか

 

非常に微妙な点

ここで、二通りの見方ができると僕は思います。

 

それは、李徴はその「非常に微妙な点」の下の方にいるのか、あるいはその更に上の方に半ば属しているのかという違いです。

 

この辺りの解釈は趣味の次元かもしれません。すなわち、李徴は非常に惜しいところで虎になったとするか、あるいは全然報われることのない努力の中で虎になったとするかということです。

 

李徴が虎になるという筋は、中島敦自身の自嘲でもあるはずなので、僕は長らく後者の読み方をしてきましたし、李徴にはあまり好意的になれませんでした。

 

しかし、最近の僕は「李徴は本当はすごかったのかもしれない」という読み方もあるなと思うようになっています(その是非については後述)。

 

同情

この点、李徴に同情できるか否かで、作品の印象が変わってくるようです。

 

以前、僕が李徴に同情できないと感じていた箇所があります。

 

己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。

 

この箇所と、李徴自身が「己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった」と反省している箇所が矛盾しているように僕には感じられます。

 

簡単に言えば、李徴は人を凡庸でつまらないと感じているから、師や詩友を求められなかったのです。彼が仲間を求め共に切磋琢磨するためには、その点を改める必要がありました。

 

しかし、虎になってまでも李徴はその癖を改めることが出来ていません。そういう意味で僕は李徴には同情できないと感じていました。

 

咆哮

虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。

 

僕は先ほど、「李徴は本当はすごかったのかもしれない」と言いましたが、やはり中島敦自身は、李徴にあまり好意的ではなさそうです。

 

李徴は虎になってまでも未だ迷いに囚われ、その中で浮かばれず、何か少しズレたところで傷心しているような、そんな風に読めます。

 

引用の箇所だと、「二声三声咆哮」という表現が、どこかあっさりとしていると言いますか、突き放していますし、「元の叢に踊り入る」は、結局また元の状態に戻っていく様を表しているようです。

 

結局のところ、総合的に読むと、「李徴は本当はすごかったのかもしれない」とばっちり読んでいくには、李徴はどこか人間的に純粋に成り切らないところがあると結論せざるを得ません。

 

そういう人物が詩で成功できるイメージを僕は持てません。詩の魅力は人間の魅力なのであって、文字を高度に操るだけの技術ではないからです。

 

虎になった理由

李徴が虎になった理由は先述の通り、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」のためという答えで変わりません。

 

自分が特別だと思い、実際に自分と他人の見ている世界が違うことに気付いている李徴は、その「自尊心」のために他人と交わることを拒みました。

 

一方で、李徴にはその他人が恐ろしかったはずです。結局、自分の才能が何か一歩及ばないものであることを、見破られたり、証明されたりしてしまうかもしれなかったからです。

 

彼の「自尊心」は師や詩友を求め共に切磋琢磨するのではなく、他人を攻撃することで他人を遠ざけ、自分を守るように働きました。

 

そして、その繰り返しが、更に彼の「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を「飼いふとらせる」こととなり、李徴は虎になってしまったのです。

 

しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。......天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。

 

虎になった李徴が嘆いたのは、いずれ理性を失うであろうという運命よりも、彼が迷い込んでしまったその孤独でした。

統合失調症の治療において必要な3つのもの(一人の患者の体験談として)

一人の患者の体験談

はじめまして、Liynです。

 

今年の一月から三ヶ月間、僕は統合失調症のため精神科病棟に入院していました。

 

入院は二回目で、五年ほど前にも一度経験しています。

 

最初の入院は発症による混乱が原因でしたが、今回の入院は主に投薬を怠ったことによる症状の悪化でした。

 

今回の入院を経て、僕はLAIという注射治療を開始し、完全ではないとは言え、現在ではほとんど幻聴などの症状から解放されています。

 

統合失調症の治療において必要な3つのもの

さっそくですが、今回お伝えしたいのは、一体何が僕の統合失調症を緩和しているのかということです。

 

僕の理解では、統合失調症は一度発症すれば完治せず、日常生活を症状から解放されて送れている状態は「寛解(かんかい)」と言うのだと思います。

 

そうであれば、僕は現在ほとんど寛解と言っていい状態にあると言えます。

 

しかし、たった三ヶ月間の入院とその後のデイケア利用によって、なぜ症状が緩和されているでしょうか。

 

それに関しては、僕個人の意見では、ある程度明快に主要な三つの要素を取り上げることができると思います(ただし、僕自身は一人の患者に過ぎないことをお断りさせて頂きます)。

 

①必要な投薬

②十分な休息

③健全なコミュニケーション

 

これら三つの要素が、僕の統合失調症を緩和する上で重要であり、生活の基本的な枠組みを構成するものだと考えます。

 

投薬

以上の三つの中で、どれが一番大事であるかと言われれば、僕は迷わず投薬であると答えます。

 

僕の経験上、投薬は症状を「根絶」するものではなく、緩和するものです。

 

僕の場合、ほとんど何も気にせずに数日過ごしていることもあります。幻聴などよりも疲れやすさの方が気になっていると言えるかもしれません。

 

薬が効かないから飲まないというのは正しい態度ではないようです。

 

それにも関わらず、薬は飲まなければなりません。効かないと思うのであれば、医師に相談する必要があります。

 

僕の場合、医師に相談せずに個人的判断で投薬を中断し、症状の悪化により入院となりました。

 

休息

とは言え、確かに僕は長い間薬を服用していましたが、あまり効果を実感できずに過ごしていました。それについてはどう言えるのでしょうか。

 

それに関しては、僕には休息が足りていなかったというのが答えになります。

 

変な話ですが、僕は23歳頃からつい最近に至るまで、カラオケに対して非常に強い執着を持っていました。

 

元々、音程やリズムがきれいにとれていないことがショックで、個人的に練習を始めたものですが、初めて幻聴を経験したのもカラオケボックスでした。

 

一人カラオケとは言え、周りの音や声は気になるものです。そのような状況下で自分を追い詰めたことが、病気の発症と悪化の一つの原因だったと思います。

 

特に再入院の前は酷く、やっぱり不満だが、前よりは上手くなっている、という毎日の繰り返しで止めるに止められず、段々狂ったように練習するようになりました。

 

一種の躁状態でもあり、夜眠られず、休憩を挟まずにカラオケのフリータイム8時間を過ごしたりしていました。

 

その状態から完全な休息状態へと移行することが、症状の緩和において絶対的に必要だったと思われます。結果的に、入院は僕にとって必要な時間でした。

 

コミュニケーション

入院生活で僕を大きく変えたのは、多くの患者さんと会話し、問題を聞き、それを一緒に整理した上で自分の考えをお伝えするという経験を繰り返したことです。

 

実は、これは一つの僕の問題でもあり、担当医師によれば、統合失調症の患者は優しい人が多く、僕などは、恐らく他の患者さんの聞き役になってしまい、場合によっては疲弊してしまうだろう、と思われていたようです。

 

実際、僕は最近では自分から進んで人の悩みを聞いたりはしなくなりました。

 

アドラーの心理学に、「課題の分離」という考え方があります。簡単に言えば、結局のところ、判断し選択し行動していくのは各個人ということです。

 

僕たちは誰かの人生の伴走者ではなく、自分自身の道を一人で歩いているので、他人の歩みにどこまでも付き合わなければならない道理はないということです。

 

そして、それは不可能であるというのが、「課題の分離」の考え方です。

 

恋人や家族を考えれば、あまりにも冷たい考えのようにも思われますが、「この人はきっと大丈夫」と信じて、何もしないというのも愛だと思います。

 

身を切らなければ愛じゃないという考え方である必要はありません。一方で、別の道を歩きながらも近くにいる、いたい、気付けば同じ道にいる、という素敵なことも確かにあると信じます。

 

人は人、自分は自分という考え方にも、各個人のニュアンスがあります。一見冷たく感じられるのは、もしかしたら先入観に過ぎないかもしれません。

 

一般的なイメージで考えるのではなく、自分にはどのような理由で「課題の分離」の考え方が必要なのか、という視点で納得していく必要があると思います。

 

自信

ここで、話の流れを元に戻させて下さい。

 

僕の場合、他の患者さんの聞き役になるということは、一つの僕の問題であり、そのあり方を考え直す必要がありました。

 

しかし、入院中の経験は確かに僕にとって必要なものであったと言えます。その経験が僕の僕自身に対する自信を高めてくれたからです。

 

ここで言う自信が、自分自身に対する己惚れなどではなく、どちらかと言えば他者に対する貢献感に基づく満足であるということに注意が必要です。

 

それは、他者との結びつき、帰属感を得ることに繋がりました。また、自分の価値を感じられたことにより、以前よりも精神的な落ち着きを得ることができました。

 

承認欲求と恨み

統合失調症の原因についてどう考えるかというのは難しい問題です。

 

脳など身体的な疾患なのか、精神的なものか、環境的なものか、様々なアプローチが考えられます。

 

一応、統合失調症の化学的な原因はドーパミンの過剰分泌であり、投薬はドーパミンを抑える働きをしてくれているはずです。

 

しかし、過去や現在の問題が精神的な疾患となって表れているという側面は否定できないのではないかと思います。

 

僕の場合、かつての大学生活における両親への不満と、無意味とも思えるカラオケ練習のための承認欲求が強く、そして病的に作用していたように思われます。

 

幸いにも、短い入院生活ではありましたが、両親への不満は休息が(僕は誰かに休ませてほしかっただけなのかもしれません)、褒められたいという承認欲求は、入院中やデイケアでのカラオケプログラムで他の患者さんの反応を得たことが、解消してくれたようです。

 

さいごに

最後に見たように、心理的な自己分析が必要になる場合もありますが、多くの問題は最初に提示させて頂いた三つの治療要素の枠組みの中で、十分な解決を見られると思われます。

 

以上、僕は一人の患者に過ぎず、今回の記述は医術的なものではないことをお断りしておきますが、少なくとも僕に言えることは、もしあなたが休息を必要としているのであれば、ぜひお休みして下さい。

 

入院も場合によってはポジティブな選択肢の一つです。その場合、必要な休息と学びがそこにあることを願います。

 

ありがとうございました。

報告#3 マダムベルテネズミキツネザル

宇宙人のliynだよ。

 

僕は現在、歴史、文学、科学、宇宙、地理、動植物に興味を持っている。

 

簡単な報告をたくさん投稿して、宇宙と地球への理解を読者のみんなと一緒に深めていきたいと考えているよ。

 

***

 

今回の報告は、マダムベルテネズミキツネザルについてだ。

 

マダムベルテネズミキツネザル

マダガスカルには107種のキツネザルが生息しているが、その内の15種は小型のネズミキツネザルだ。

 

マダムベルテネズミキツネザルは最小のネズミキツネザルで、霊長類としても世界最小のものだ。2000年に発見された。

 

他の103種のキツネザルと共に絶滅が危惧されている。

 

マダムベルテネズミキツネザルは生態系の中でも重要な役割を果たし、同種の排泄を経て発芽する植物があるという。

 

同種の生息域は、マダガスカル西海岸のキランディ・ミタ国立公園に広がる乾燥した森だ。

 

 

***

 

貧困国のマダガスカルでは、森林破壊、密漁、動物の違法取引が見られ、1950年代からの50年間で森林の約40%が失われた。

 

アフリカ全体でも、霊長類の53%が絶滅に瀕している。

 

***

 

マダガスカルはバオバブという奇妙な形をした木で有名だ。8000万年以上前に大陸から切り離された同島は多くの固有種を持つ。

 

他に、アイアイやベローシファカ、ワオキツネザルが生息することで知られる。

 

 

報告の目的

この報告の目的は、地球の動植物に親しむことだった。

 

宇宙、地球、人間について知ることが僕たちの大きな目標だ。

報告#2 民間宇宙船スターライナー

宇宙人のliynだよ。

 

僕は現在、歴史、文学、科学、宇宙、地理、動植物に興味を持っている。

 

簡単な報告をたくさん投稿して、宇宙と地球への理解を読者のみんなと一緒に深めていきたいと考えているよ。

 

***

 

今回の報告は、民間宇宙船スターライナーについてだ。

 

スターライナー

米ボーイングの新型宇宙船スターライナーは5月7日午前、フロリダ州のケープカナベラル宇宙軍基地から打ち上げられる予定だ。

 

 

NASAの宇宙飛行士2人が搭乗し、ISS(国際宇宙ステーション)に接続、およそ1週間滞在して地球に帰還する。

 

現在、ISSへ宇宙飛行士を輸送する米国の宇宙船は、スペースXのクルードラゴンに限られている。

 

NASAはこれまで、商業乗員輸送計画の下、クルードラゴンとスターライナーの開発を支援してきた。

 

スターライナーの打ち上げには、ユナイテッド・ローンチ・アライアンスのアトラスVロケットが使用される。

 

クルードラゴン

2020年に初号機の運用に成功して以後、スペースXのクルードラゴンはこれまで計13回、宇宙飛行士をISSへ送り届けている。

 

同宇宙船はスペースXのファルコン9ロケットで打ち上げられている。

 

オリオン

最近、名前をよく見かける宇宙船にオリオンがある。

 

これは、NASAの月宇宙船だ。

 

一方、クルードラゴンやスターライナーは宇宙飛行士をISSへ送り届けることを目的に設計されている。

 

2025年、NASAはオリオンの有人飛行で月周回を目指し、翌26年には有人月面着陸を実現させたい考えだ。

 

民間人の宇宙旅行

 

実は、自費でISSに滞在する宇宙旅行ツアーは以前よりあった。

 

2021年にゾゾタウンの前澤氏がロシアの宇宙船ソユーズでISSに到着したことは記憶に新しい。

 

去年にも、スペースXの宇宙船クルードラゴンは、ファルコン9ロケットを用いて4人の民間人をISSへ送っている。

 

なお、前澤氏の月周回旅行計画は延期されている。

 

報告の目的

この報告の目的は、①天文学に馴染むこと、②最新の宇宙開発の動向について知ることだった。

 

宇宙、地球、人間について知ることが僕たちの大きな目標だ。