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from my dear Andromeda

芥川龍之介「ひょっとこ」 あらすじ/ノート

芥川龍之介(1892~1927年)の「ひょっとこ」は、1915年に発表されました。

同年、「羅生門」が『帝国文学』の十一月号に掲載されていますが、今回の作品は遡って、同誌の四月号に載ったものです。

これらの二作は、「羅生門」をも含めて、発表当初にはほとんど反響を得ることができませんでした。

芥川が新進作家として注目されるのは、「鼻」(1916年)が師の夏目漱石に認められた縁で、「芋粥」や「手巾(ハンケチ)」を発表して以後のことになります。

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

 

(1)あらすじ

吾妻橋の欄干に寄って立って、大勢が橋の下を通る花見の船を見ている。

船は川下から、一、二艘ずつ上って来る。その内の一艘が、紅白の装いをして、橋をくぐって出て来た。

見ると、数いる船頭達が、赤く桜を染め抜いた手拭を鉢巻にして、代わる代わる漕いでいる。

船の上で、ちょうど始まったのは、ちゃんぎりを入れた馬鹿囃子である。吹き流しの下では、ひょっとこの面を被った背の低い男が、馬鹿踊りを踊り始めた。

ひょっとこは唯、いい加減に、お神楽堂の上の莫迦のような身振りだとか、手つきだとかを繰り返している。酔って体が利かないと見えるが、見る者には、それがまた可笑しいらしい。

ひょっとこの足取りは段々怪しくなってきた。すると、今し方通った蒸気船の横波に揺すられて、三歩ばかりよろけると、今度はぐるりと一つ、大きな円を描きながら、股引を履いた両足を空へ上げて、船の中へ転げ落ちた。

橋の上の見物が、男が頓死したのを聞いたのは、それから十分の後である。翌日の新聞によれば、男の名は山村平吉、死因は脳溢血という事であった。

丸顔で、少し禿げた、どこかひょうきんな所のある平吉は、誰にでも腰が低い。道楽は飲む事ばかりだが、実は、酒癖はそれほどではない。ただ、酔うと必ず、馬鹿踊りをする癖がある。

平吉が酒を飲むのは、心理的にも、飲まずにはいられないのである。酒さえ飲めば気が大きくなって、何となく、誰の前でも遠慮が要らないような心持ちになる。平吉には、それが何よりも有難い。

しらふの時と、酔っている時と、平吉には同じ人間であると思われない。何故だかは知らないが、普段の時には、ほとんど意識もせずに、嘘ばかりついている。

というのも、平吉が紙屋に奉公に出た時の話だとか、親父の代から使っている番頭の話だとか、こんなものが皆、嘘なのである。これらの嘘を除いては、平吉の人生には何も残らない。

船の中に転げ落ちた平吉は、髪結床の親方に揺すられていた。すると、呼吸とも言葉ともつかない微かな声が、面の下から伝わって来た。

――面を……面をとってくれ……面を。

しかし、面の下の平吉の顔はもう、あの愛嬌のある、ひょうきんな、話のうまい平吉の顔ではなかった。

ただ、さっきのひょっとこの面だけが、平吉の顔を見上げながら、つんと口を尖らせたとぼけた顔を、静かに空に向けている。

 

(2)ノートA(事実関係)

1913年9月、芥川は東京帝国大学文学部英文科に入学しました。

翌1914年には、芥川は第三次『新思潮』誌上に、柳川隆之介のペンネームで、アナトール・フランスやイェーツの翻訳や、「老年」、「青年と死」などの小説を発表しています。

芥川は小学校時代から、仲間と回覧雑誌を作り、そこに小説などを書いて投稿していましたが、初めて活字化された小説が「老年」のため、これを処女作と見ることができます。

今回の「ひょっとこ」は、1915年、東京帝国大学文学部の『帝国文学』(四月号)に掲載されたものですが、先のペンネームが使用されました。

同誌の十一月号に掲載されたのが「羅生門」です。しかし、意外にも、発表当初の反響はほとんどありませんでした。

「ひょつとこ」も「羅生門」も『帝国文学』で発表した。勿論両方共誰の注目も惹かなかつた。完全に黙殺された。(「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」/1919年)

同年11月(「羅生門」発表の直後)、芥川は友人の久米正雄と共に、夏目漱石の面識を得て、以後、その木曜会に出席するようになります。

そして、翌1916年の「鼻」が師の漱石に認められ、「芋粥」や「手巾」の発表の場を得たことで、芥川は文壇デヴューを果たすことになりました。

 

(3)ノートB(個人的解釈)

ここからは、私の個人的解釈を簡単に記します(必ずしも、資料的な裏付けのあるものではありません)。

中村真一郎氏によれば、「ひょっとこ」に描かれているのは、「社交家の孤独」であるのだと言います(中村真一郎『芥川龍之介』)。

伯母フキに「龍ちゃん」と可愛がられながらも、一方で、決して甘やかされずに教育された芥川は、かなりの社交家でもあり、多くの人物が、その礼儀正しさを指摘しています。

しかし、社交家の芥川は同時に、孤独に苦しんでもいたのかもしれません(一般的には断定して可でしょうが、私には分からないので、推量系としておきます)。

例えば、1916年の「孤独地獄」の中で、芥川は最後に、「何故と云へば、或意味で自分も亦、孤独地獄に苦しめられてゐる一人だからである」と言っています。

また、更に遡って、第一高等学校時代には、友人宛ての手紙の中で、芥川は「しみじみ何のために生きてゐるのかわからない。神も僕にはだんだんとうすくなる」(山本喜誉司宛て書簡/1911年)と書いています。

そして、先の「孤独地獄」に戻ると、そこには、「一切の事が少しも永続した興味を与へない。だから何時でも一つの境界から一つの境界を追つて生きてゐる」という言葉も見えます。

すると、ここで言う「孤独」とは、漠然とした寄る辺なさ、あるいは虚無感と考えることができると思います。

ただ、私が個人的に芥川を思う時、私はこの作品に隠された問題を、「孤独」というよりは、「嘘」に対する潔癖や業(ごう)として捉えます。

最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知っていると思うからだ。(都会人と云う僕の皮を剥ぎさえすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑ってくれ給え。

これは、「或阿呆の一生」(1927年)の久米に宛てた部分ですが、この中には、芥川が苦しんだであろう「嘘」の業が端的に示されている、と私は読みます。

芥川の言う「都会人」とは何か、資料的な解釈は分かりませんが、恐らくは、「知性」、「博識」、「能弁」、「洗練」といった意味であったろうと思います。

そうして塗り固められ、奥の方に隠されていく、臆病で「clumsy(不器用)」な自分の発している疑問こそが、「嘘」に対する潔癖と業でしょう。

現代人が社交上、見かけの上の自立を得るため、大なり小なり重ねていく嘘や誇張や自嘲、そして、それと表裏を成す自信過剰、個性――私たちは何よりもまず、自分自身を扱い切れていない、と言うべきでしょうか。

 

(4)参考図書

芥川龍之介「ひよつとこ」『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店)

芥川龍之介「或阿呆の一生」『河童・或阿呆の一生』(新潮文庫)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

関口安義『芥川龍之介 闘いの生涯』(毎日新聞社)

 

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