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from my dear Andromeda

芥川龍之介「手巾」 あらすじ/ノート

芥川龍之介(1892~1927年)の「手巾(ハンケチ)」は、1916年、『中央公論』誌上に発表されたものです。

すでに、1915年に「羅生門」を発表していた芥川は、翌1916年の「鼻」が師の夏目漱石に認められたことをきかっけに、「芋粥」(9月)と「手巾」(10月)を発表する機会を得ました。

芥川が新進作家として文壇に登場したのは、これら二作によってでした。

今回の「手巾」は、『武士道』の新渡戸稲造をモデルにして、東西文明の相互理解と断絶を取り上げた作品と言えます。

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

 

(1)あらすじ

東京帝国大学法学部教授、長谷川謹造先生は、初夏の日の長い午後、ベランダの籐椅子に一人腰をかけて、ストリンドベリーの作劇術(ドラマトゥルギー)を読んでいた。

先生の専門は植民政策の研究だが、学生の中にはイプセンやら、ストリンドベリーやら、メーテルリンクやらの書評を書く者も少なくない関係で、教育者として、専門外のものにも、一応目を通している。

先生は少し読む毎に、黄色い布表紙の本を膝の上へ置いて、吊るしてある岐阜提灯の方を眺めやっている。

その岐阜提灯は、先生に、日本と日本文化に理解のある、アメリカ人の夫人のことを思い出させる。すると、先生の思慮は、日本の文明と、その東西の交流に及ばざるを得ない。

先生の説によれば、物質的発展と精神的な堕落とを同時に経験している日本を救い得るのは、武士道において他にない。武士道はまた、日本と西洋との間の相互理解を可能にするであろうとも、先生は言う。

先生はふと、その思考がストリンドベリーから離れていくことに気が付いたが、ちょっと頭を振るなり、再び読み始めた先生の静穏は、突然の来客により、再度妨げられてしまった。

小間使いの持ってきた名刺にある、西山篤子という名を、先生は知らなかったが、会ってみると、夫人は先生の教え子である西山憲一郎の母であると分かった。

夫人は、入院中であった息子が亡くなったことを、先生に報じに来たのである。

実は、先生も一、二度はその教え子の見舞いに行ったものであったが、てっきり、もう大抵よくなったものと思っていた。

先生が妙に思ったのは、この夫人の態度に少しも、息子の死を語っているらしい所がなかったことである。見たところ、夫人は、まるで平生の通りで、口元には微笑さえ浮かんでいる。

と、先生は何かの拍子で、握っていた朝鮮団扇を落としてしまった。それを拾い上げようとした時、先生は膝の上でハンカチを掴んでいる夫人の手が、激しく震えているのを発見した。

しかし、夫人は最後まで、表情に微笑を絶やさなかった。後で、先生はこれを日本の女の武士道だと、夕食を食べながら、奥さん相手に賞賛した。もちろん、奥さんはそれに同意してくれた。

さっきの夫人と、奥さんと、岐阜提灯と――その調和は、しかし、もう一度読み始めたストリンドベリーによって、破られてしまった。臭味(メツツヘン)、それが、膝の下でハンカチを握るという型(マニイル)に、彼が与えた名であった。

先生は不快そうに、二、三度頭を振った。そうして、秋草を描いた岐阜提灯の明るい灯を、じっと眺め始めた。……

 

(2)ノートA(事実関係)

1915年11月、東京帝国大学文学部英文科に在学中の芥川は、同文学部の『帝国文学』誌上に「羅生門」を発表しました。

しかし、同作は発表当初、ほとんど反響を得ることができませんでした。芥川が新進作家として文壇に登場するまでには、翌1916年の『鼻』が、師の夏目漱石に認められるのを待たなければなりませんでした。

これによって、芥川は『新小説』(9月)に「芋粥」を、新進作家の登竜門である『中央公論』(10月)に、今回の「手巾」を発表する機会を得ました。

 

芥川龍之介「羅生門」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「鼻」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「芋粥」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

先に発表した「芋粥」に関しては、芥川は夏目漱石から概ね好意的に評価する手紙を受け取り、まず安心することができました。

同じ頃、芥川は長編の「偸盗」(1917年)も書き始めていましたが、『中央公論』に載せる「手巾」を慎重に仕上げるため、これに専念します。

この作品も、発表当初は好意的に受け入れられました。この頃の芥川自身の言葉としては、以下のような書簡が残されています。

この頃僕も文壇へ入籍届だけは出せました まだ海のものとも山のものとも自分ながらわかりません(原善一郎宛て書簡/1916年10月)

しかし、芥川は一方で、既存の自然主義文壇の無理解と批判にも晒されなければなりませんでした。翌月の批評には、斬馬生(ざんばせい)や田山花袋のものなどがありますが、ここでは前者を引用しておきたいと思います。

この作物は決して上出来だとは思はない。主人公の性格が少しもなって居ない。そしてまた生徒の死を聞いた時の、しかもその亡人の母の前での態度なぞは、あまりに愚かな程である。第一に何を書こうとしたのか雑然として分つて来ない。そしてその手巾がとうとう原稿の主題に化けてしまつたという滑稽な作である。

なお、作中の長谷川先生のモデルは、『武士道』で新渡戸稲造です。彼は、芥川が第一高等学校に入学した時の校長でした。

作中の先生の人物造形には、一高時代の校長訓話や、倫理学の講義を参考にしたと言われています。

 

(3)ノートB(個人的解釈)

ここからは、私の個人的解釈(あるいは感想)を簡単に記します(必ずしも、資料的な裏付けがあるわけではありません)。

これは、私の個人的な理解に過ぎませんが、芥川の作品の一つの特徴は、人間の心理や行動に、ある「疑問符」を付けて、分析的に、あるいは構成的に書かれていることだと、私は考えています。

芥川の初期の「羅生門」(1915年)、「鼻」(1916年)、「芋粥」(同)などは、皆同じ手法で書かれたものと言えると思います。

今回の「手巾」もまた、まさにそうした手法で書かれたものです。

すなわち、この作品では、先生の実際の生活場面をありのまま描くことに関心があるのではなく、東西文明の相違という問題に伴う「疑問符」を浮かび上がらせることが目的となっているのだと、私は思います。

芥川の作品のその虚構性には好き嫌いがありそうで、実際、作者は当時の自然主義文壇からの批判に晒されもしたことは、先述した通りです。

この手の作品の意義は、実は、多くの部分が読み手に委ねられているのだと、言うべきかもしれません。

というのも、例えば、芥川が「手巾」で示しているのは、東西文明の相違の隅々なのではなく、単に「疑問符」それ自体なのであって、それから先の思惟は、全て読み手に任せられているからです。

それを楽しいと感じるか、物足りないと感じるかは、読者の性質によるものと私は思っています。

ところで、あらすじでは省略せざるを得ませんでしたが、作中では、東西文明の相違の一例が、感情をありのまま、直情的に表現する西洋と、武士道のように、意地や慎みを美徳とする日本の精神との違いとして示されています。

坂口安吾の「堕落論」(1947年)を挙げるまでもなく、武士道が真に日本人の自然的な精神であるものか、私には分かりません。

しかし、福沢諭吉が「瘠我慢の説」(1901年)で示したような、意地と潔さを美とする感性が私たちの中にあることも、また確かであると思います。

作中にも断りがあるように、ストリンドベリーの言う「臭味(メツツヘン)」は、単に外形的な部分を裁断したものに過ぎず、人間の精神の内部に発見される美に迫るものではありません。

一方、その美を仮に「倫理」と呼ぶとすれば、新渡戸の考える通り、キリスト教圏である西洋と東洋との相互理解が、類縁の「美」を仲介として、果たされる可能性が確かにあったと言ってもよいでしょう。

ただ、先生の目に入ったストリンドベリーの「臭味」は、その夢想に止めを刺すものではなかったにしろ、精神の感性や感度の違いが、如何に多くのものを、簡単に払いのけてしまうかを教えるに足るものでした。

このことは、東西文明の相違というような、大きな文化的問題にのみ見られるものではなく、私たちの生活の多くの場面でも、往々にして見られる無理解の形と言うべきと思います。

 

(4)参考図書

芥川龍之介「手巾」『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

 

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