History & Space for a Break

from my dear Andromeda

芥川龍之介「猿」 あらすじ/ノート

芥川龍之介(1892~1927年)の「猿」は、1916年9月に発表されました。

同日には、芥川の「芋粥」が公の雑誌『新小説』誌上に発表されています(今回の作品は、同人雑誌の第四次『新思潮』に掲載)。

同作は芥川の最初の単行本『羅生門』(1917年5月)にも収録されており、初期の良作の一つに数えることができます。

内容的には、軍艦内の盗品事件をきっかけに、私たちがいかに自然な同情心を失いがちであるかという問題が提起されていると言えます。

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

 

(1)あらすじ

私が、遠洋航海を済ませて、やっと候補生の年季も終わろうとした時です。

私の乗っていた軍艦が横須賀へ入港してから、三日目の午後、総員集合を命じるラッパが、突然鳴りました。当然、ただごとではありません。

副長は、軍艦内で盗難の事例が二、三あるらしいことを告げました。そこで、臨時に総員の身体検査と、所持品の検査が行われることになったのです。

私は中下甲板の検査をする役に当たって、兵員の衣嚢(いのう)やら手箱やらを検査して歩きましたが、その内に、私の友人の牧田という男が、奈良島という信号兵の持ち物の中に、例の盗品を発見しました。

すると、直ちに信号兵集合の号令が出ましたが、奈良島の姿がありません。軍艦内の盗難事件では、よくあることなのだそうです。というのも、もちろん、先に容疑者が自殺してしまうからです。

すぐに、副長の命令で、艦内の捜索が始まりました。そこで、一種愉快な興奮に駆られたのは、私一人ではないでしょう。私と牧田などは、いつか艦内で猿を捕まえた時のことを、冗談で言い合ったりしたのです。

私は一番先に、薄暗い下甲板へ下りました。その薄暗い中を、石炭庫の方へ歩いていった時のことです。私はもう少しで、声を出して、叫びそうになりました。その入口に、人間の上半身が出ていたからです。

私は奈良島に飛び掛かって、両手で肩をしっかり押さえました。その時、振り返って私を見上げた、彼の「恐ろしい」顔は、私の心の中にある何物かを、衝撃で叩き壊してしまいました。

その後、私は他の候補生と欄干に寄りかかって、日の暮れかかる港を、見るともなく見ていました。すると、例の牧田が私の隣へ来て、「猿を生け捕ったのは、大手柄だったな」と冷やかして言いました。

しかし、「奈良島は人間だ。猿じゃない」。私はつっけんどんに答えました。

思えば、奈良島の姿が見えないと狼狽する副長を軽蔑し、あの信号兵を猿扱いしていた、私たちの馬鹿さ加減は――私たちが猿扱いする中にも、副長だけは、同じ人間らしい同情を、あの信号兵のために持っていたのです。

 

(2)ノートA(事実関係)

1916年2月、第四次『新思潮』誌上に「鼻」が発表されました。

この作品は、師の夏目漱石の激賞を受け、そのことが、「芋粥」(9月)と「手巾(ハンケチ)」(10月)発表の機縁となりました。

この二作で初めて、芥川は回覧雑誌や同人雑誌ではなく、一流雑誌に自身の作品を掲載することができました。ここに、芥川の文壇デヴューが達成されます。

 

芥川龍之介「鼻」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「芋粥」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「手巾」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

今回の「猿」は、「芋粥」と同じ1916年9月に発表された作品です。

この作品は翌1917年5月、初の単行本『羅生門』にも収録されています。この頃の芥川を捉えた文章としては、江口渙の以下の言葉があります。

数多い新進作家の中で芥川龍之介君位鮮やかに頭角を露はした者はない(「芥川君の作品」/1917年)

また、芥川自身も新進作家としての自信を覗かせており、この頃、以下のような言葉を残しています。

自分は近来ますます自分らしい道を、自分らしく歩くことによつてのみ、多少なりとも成長し得る事を感じてゐる。従つて、屡々自分の頂戴する新理智派と云ひ、新技巧派と云ふ名称の如きは、何れも自分にとつては寧ろ迷惑な貼札に過ぎない。(「『羅生門』の後に」/1917年)

 

(3)ノートB(個人的解釈)

ここからは、私が今回の作品を読んで思い出したものの中から、作品の補足となりそうなものを選んで、簡単に記します(ただし、個人的な連想に止まり、学術的なものではありません)。

最初に触れたいのは、芥川の「父」(1916年5月)という作品です。

この作品によれば、芥川が中学四年の時、日光から足尾にかけての修学旅行があったそうです。

作品の舞台は、出発前の集合場所である停車場で、そこに学友が集って、周囲に見える人間たちを、好き放題に品質していきます。

その中心にいたのは、一番諧謔に富んだ能勢という男の子で、彼は学友たちの求めに応じて、ある男に「ロンドン乞食」というあだ名を与えました。

しかし、芥川だけは、その男が能勢の父親だと気が付いていました。彼の父は、息子の出発を見送るために、そこにいたのです。

皆が一時にふき出したのは、いうまでもない。中にはわざわざ反り身になって、懐中時計を出しながら、能勢の父親の姿を真似て見る者さえある。自分は、思わず下を向いた。その時の能勢の顔を見るだけの勇気が、自分には欠けていたからである。

今回の「猿」というお話は、信号兵の奈良島が見せた、「恐ろしい」としか形容できないような、どう同情していいか分からないような表情に衝撃を受けて、彼を猿呼ばわりしていたことを恥じる、というものです。

人間というものは、本来的には、どんな相手に対してでも同情心を持つことができるのかもしれません。しかし、一方では、私たちは嫌悪や諧謔の上に他人を転がしておいて、平気でいるものです。

それが誤りであったと気が付く瞬間は、誰にでも経験があるでしょう。芥川の繊細な心は、そのような瞬間を人一倍苦しく感じていたのだと思います。

 

芥川龍之介「父」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

次に、遺稿「或阿呆の一生」の中から、「結婚」と題された以下の文章をご紹介させて頂きます。

彼は結婚した翌日に「来匆々(そうそう)無駄費いをしては困る」と彼の妻に小言を言った。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言え」と云う小言だった。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詫びを言っていた。彼の為に買って来た黄水仙の鉢を前にしたまま。……

妻の純真や善意を守れなかったことを悔いているのでしょうか。半ば自責とも言える優しさが、ここに表れているように思われます。

最後に取り上げるのは、今回の作品と同じ日に発表された「芋粥」です。

この作品の主人公の、名前の伝わらない五位の男は、意気地なしで臆病で、見た目や着る物もだらしなく、上下の人間に侮られていました。

しかし、ある無位の青年は、この四十過ぎの五位がいじらしく、「いけぬのう、お身たちは」と言ったのを聞いた時、そこに「世間の迫害にべそを掻いた、『人間』」を発見したと、作者は書いています。

その後、彼には、「五位の事を考える度に、世の中のすべてが、急に、本来の下等さを露すように思われ」るようになったそうです。

 

芥川龍之介「芋粥」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

皆誰でも守られなければならない、その簡単な事実を経験から学ぶまでに、私たちはたくさん傷つき、傷つけなければなりません。

ここで、結びとして、芥川の箴言集『侏儒の言葉』(1923~25年)の中の、以下の言葉を引用しておきたいと思います。

すなわち、「我我の悲劇は年少のため、あるいは訓練の足りないため、まだ良心を捉え得ぬ前に、破廉恥漢の非難を受けることである」(「修身」)。……

 

(4)参考図書

芥川龍之介「猿」『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

 

(5)関連記事

芥川龍之介「鼻」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「芋粥」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「手巾」 あらすじ/ノート - History for a Break