芥川龍之介「孤独地獄」 あらすじ/ノート

芥川龍之介(1892~1927年)の「孤独地獄」は、1916年4月に発表されました。

前年の「羅生門」が意外にも反響を生まなかった芥川ですが、1916年の「鼻」が師の夏目漱石に認められたことで、「芋粥」、「手巾(ハンケチ)」で文壇デヴューを果たすことができました。

今回の「孤独地獄」は、「鼻」(2月)と、「芋粥」(9月)、「手巾」(10月)との間に発表されたものですが、その知名度に反して、芥川の生涯の苦悩を知る上で、非常に興味深い作品と言えます。

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

 

(1)あらすじ

この話を、自分は母から聞いた。母はそれを、自分の大叔父から聞いたらしい。話の真偽は分からないが、ありそうな話だとも思う。

大叔父はいわゆる大通で、幕末の芸人や文人の間に知己が多かった。名は細木香以(さいき こうい)と言い、俗称は津藤であった。

その津藤はある日、吉原の玉屋で、一人の僧侶と知り合いになった。彼は本郷界隈の禅寺の住職で、名を禅超と言った。それが嫖客となって、玉屋の錦木という花魁に馴染んでいたのである。

津藤が禅超と出会ったのは、偶然であった。というのも、玉屋の二階で、人違いでその耳を引っ張った相手が、偶々禅超だったのである。

その後、津藤は付き人に菓子を持たせて詫び、相手の方でも気の毒がって、わざわざ会いに来た。それから、二人の交情が結ばれたが、ただ、玉屋の二階で会うばかりで、それ以上の交際はなかった。

ある夜、津藤が禅超に会うと、彼はいつになく血色の悪い様子で、三味線を弾いていた。津藤はこれを、嫖客がかかりやすい倦怠(アンニュイ)だと解釈した。二人は何時になく、しんみりした話をした。

禅超は急に思い出したような様子で、こんな事を言った。

仏説によると、地獄にも様々あるが、およそ、根本地獄、近辺地獄、孤独地獄の三つに分ける事ができる。

地獄は、大抵は地下にあるものだが、孤独地獄だけは、山間広野樹下空中、どこへでも忽然として現れる。自分は二、三年前から、この地獄へ落ちた。

一切の事が、少しも永続した興味を与えない。それで、転々として、その日その日の苦しみを忘れようと生活していく。それも終いに苦しくなるとすれば、死んでしまうより他にない。

昔は苦しみながらも、死ぬのは嫌だった。今では……。

ちょうど禅超が、三味線と共に低い声で言ったため、最後の言葉は、津藤の耳には入らなかった。それ以来、禅超は玉屋へは来なくなった。彼はそれからどうなったのか、知っている者はいない。

これは、安政四年(1857年)頃の話である。

一日の大部分を書斎で暮らしている自分は、その大叔父や禅超とは、全然没交渉な世界に住んでいる人間であろう。

しかし、自分の中のある心持ちは、ややもすれば、孤独地獄という言葉を介して、自分の同情を彼らの生活に注ごうとする。

ある意味で自分もまた、孤独地獄に苦しめられている一人だからである。

 

(2)ノートA(事実関係)

芥川龍之介は1892年、東京で生まれました。

実父は牛乳販売業を営む新原(にいはら)敏三、実母はフクです。しかし、生後八カ月頃、フクが精神に異常を来たしたため、芥川はフクの実家である芥川家で養育されました(正式な養子縁組は12歳の時)。

作中の津藤(細木香以)とは、養母の叔父で、名の知れた幕末の大通(辞書によれば、遊郭や遊芸に通じている人のこと)でした。

作品は1916年、第四次『新思潮』(四月号)誌上で発表されたもので、遡って、同誌の創刊号には、芥川は「鼻」を載せています。

師である夏目漱石の激賞を受けた「鼻」は、「芋粥」(9月)や「手巾」(10月)を発表するきっかけとなり、この二作で、芥川は文壇デヴューを果たしました。

 

(3)ノートB(個人的解釈)

ここからは、作品の個人的解釈を簡単に記します(必ずしも、資料的な裏付けがあるわけではありません)。

高等学校時代、芥川が友人に宛てて書いた手紙の中に、以下のような言葉があります(1911年)。

しみじみ何のために生きてゐるのかわからない。神も僕にはだんだんとうすくなる。(…)窮極する所は死乎、けれども僕にはどうもまだどうにかなりそうな気がする、死なずともすみさうな気がする。卑怯だ、未練があるのだ、僕は死ねない理由もなく死ねない、家族の係累といふ錘はさらにこの卑怯をつよくする、何度日記に『死』といふ字をかいて見たかしれないのに。

ほとんど、作中の「孤独地獄」そのままの言葉が語られているように思われます。

禅超は作中で、「一切の事が少しも永続した興味を与へない。だから何時でも一つの境界から一つの境界を追つて生きてゐる」と語っています。

この言葉から感じられるのは、漠然とした寄る辺なさ、あるいは虚無感であると、私は思います。

ここで、私がすぐに思い出すことができるのは、「或阿呆の一生」(1927年)の中にある、「倦怠」と題された以下の文章です。

「君たちはまだ生活欲を盛に持っているだろうね?」

「ええ、――だってあなたでも……」

「ところが僕は持っていないんだよ。制作欲だけは持っているけれども」

それは彼の真情だった。彼は実際いつの間にか生活に興味を失っていた。(…)

芒原はいつか赤い穂の上にはっきりと噴火山を露し出した。彼はこの噴火山に何か羨望に近いものを感じた。しかしそれは彼自身にもなぜと云うことはわからなかった。……

高等学校時代の芥川の虚無は、もっと、繊細な絶望だったかもしれませんが、私たちのそれの背後には、実は、荒々しい、生の意欲が同時に秘められている事が、少なくありません。

そう考えると、作中の禅超は、津藤の診断した「倦怠」というよりは、全てに意味と意欲を失った空虚感に襲われていたように見えます。

これは、「倦怠」とは、なお何かを求め、積極的とも消極的ともつかずに、一人闘い続けている状態と、私は考えるからです。

ところで、芥川の倦怠や虚無感の原因として、彼の懐疑主義を考えてみることは、実際、妥当なことではあるでしょう。

しかし、そうするのであれば、同じく「或阿呆の一生」の中に、アナトール・フランスの懐疑主義を、芥川が「薔薇の葉の匂のする」と表現している箇所があることも見逃せません。

また、他の箇所では、芥川は自分の「冷かな理智に富んだ一面に近い」哲学者としてヴォルテールに言及し、「反語や微笑」を落としながら、人工の翼で飛翔したことを回想しています。

すると、懐疑主義は芥川にとって、「安心」、「優美」、「浄化」でもあったのではないかと、考えられないでしょうか。

これは、とても私の能力の及ばないことですが、芥川の苦悩の原因は様々あり、その性質も色々な見え方をするという事を、最後に指摘しておきたいと思います。

 

(4)参考図書

芥川龍之介「孤独地獄」『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店)

芥川龍之介「或阿呆の一生」『河童・或阿呆の一生』(新潮文庫)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

関口安義『芥川龍之介 闘いの生涯』(毎日新聞社)

 

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