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from my dear Andromeda

芥川龍之介「運」 あらすじ/ノート

芥川龍之介(1892~1927年)の「運」は、1917年に発表されました。

1916年の「鼻」が師の夏目漱石に認められたことをきっかけに、芥川は「芋粥」と「手巾(ハンケチ)」で文壇デビューを果たしました。

この頃僕も文壇へ入籍届だけは出せました。まだ海のものとも山のものとも自分ながらわかりません。(原善一郎宛て書簡/1916年)

今回の「運」は、その二作の後に書かれた、芥川のかなり初期の頃の作品と言うことができます。

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

 

(1)あらすじ

入口の簾の目が粗いので、仕事場にいても、往来の様子はよく見える。清水寺へ通じる往来は、さっきから、人通りが絶えない。

暖かな午後の陽に炙られた土を踏んで行く、その人通りを何とはなしに眺めていた青侍はふと、主の陶器師(すえものつくり)にこう言った。

――相変わらず、観音様へ参詣する人は多いようだね。

どれ、私も一つ、日参してみようかなどと言う青侍の言葉を、陶器師は冗談半分に聞いていた。青侍に言わせれば、日参しようが、参籠しようが、それは善い運を授かるために、神仏を相手に一商売するようなものであるらしい。

果たして神仏は運をお授けになるものか――青侍は返事をしない陶器師から、何か昔話を引き出せないかと思った。

しかし、この人の好さそうな老人は、あなた位の御年では、運の善し悪しは分かりますまいとばかり言う。それが、青侍には飲み込めなかった。それでも、青侍は食い下がって、やっと、次のような話を語らせることができた。

――三、四十年前のことだろうか。どうぞ一生安楽に暮らせますようにと、ある娘が清水寺の観音様に願をかけた事があった。娘はちょうど、たった一人の母親と死に別れたばかりであった。

二十一日の御籠りが終わり、満願の夜、娘は夢の中で、「帰り道にそなたに言い寄る男があるから、その言うことを聞くがよい」というお告げを得た。案の定、娘はその帰り道、知らない男に連れていかれた。

娘は八坂寺の塔の中へ連れ込まれて、一晩過ごした。そればかりか、宿世の縁だの何のと言う男に従って、夫婦になることになった。形ばかりの盃事を済ませると、男は娘に豪華な綾と絹を送った。

男が出かけると、娘は一人で心細くなり、何気なく塔の奥へ行った。すると、そこには綾や絹はおろか、珠玉や砂金までもが並んでいた。これは、どうにも、男は引剥(ひはぎ)か盗賊に違いあるまい。

更に驚いたことに、そこには、六十ばかりの尼法師が、丸くなって座っていた。娘は尼が居眠りをしている隙に逃げようとしたが、蹴躓いた拍子に気付かれてしまい、掴み合っている内に、尼は死んでしまった。

逃げ込んだ先の知人の家で、急に往来が騒がしくなった時は恐ろしかった。そっと覗いて見てみると、あの男が、検非違使の役人とその下僕に囲まれて、引かれて行く所であった。

それを見ると、娘は思わず自分がいじらしくなって、泣いてしまった。――

陶器師は、観音様へ願をかけるのも考え物だと言った。しかし、青侍は結構な事だと言う。娘はその時の綾や絹を元手に、今では不自由なく暮らしているからだ。

人を殺そうが、物盗りの女房になろうが、その気でしたんでないなら、仕方があるまいよ――青侍はその娘を幸せ者と言った。

そういう運はまっぴら御免と言う陶器師の言葉の意味を、青侍は知らない。

 

(2)ノートA(事実関係)

先述の通り、芥川の「運」は1917年に発表されました。

芥川と言えば「羅生門」(1915年)が最も有名ですが、発表当初はほとんど反響がなく、芥川の文壇デヴューのきっかけは、師の夏目漱石から激賞された「鼻」(1916年)でした。

それを機に、1916年、『新小説』に発表したのが「芋粥」、新人作家の登竜門『中央公論』に発表したのが「手巾」です。

これらの発表直後の評価は良いものでした。しかし、実際には、芥川は颯爽たる文壇デビューの背後で、既存の自然主義文壇の無理解と批判にも晒されなければなりませんでした。

その批判への反論として、1917年1月に発表されたのが、「MENSURA ZOILI(メンスラ ゾイリ)」です。

これは、他国の小説や絵には使用するが、自国のものには使用しない、ゾイリア国の価値測定器の評価の馬鹿々々しさを描くことで、文壇の批評的態度を揶揄したものです(詳しくはこちら)。

今回の「運」もまた、「尾形了斎覚え書」と共に、同月に発表されたものです。この時、芥川はすでに東京帝国大学を卒業し、横須賀の海軍機関学校の英語教師の職を得ています。師の夏目漱石が亡くなったのは、前年末のことでした。

理解のない批判に晒されたのは、「運」も同じでした。例えば、中村孤月の以下のような批評があります(「一月の文壇」/1917年)

芥川龍之助氏のは、文章世界の運と新潮の尾形了斎の覚え書とを読んだ。芥川氏が何の為めに斯ういふ創作を為るかと考へると、其処には多少人間の生活に対する社会の多数の考へに新しい心を起こさせようとして居る所が見られぬでもないが、其考へが確りして居ないから、妙なものばかり書いて居る。浅薄で希薄で其上に今日の時代の新しさを欠いて居る。二つの中でも文章世界の運は酷いものだ。(…)海軍機関学校教官の余技は文壇に要はない。

このような批判のため、芥川は友人宛ての書簡の中で、「それから今後新聞雑誌の文芸批評は一切縁を切つてよまない事にするつもりだ あれを読んで幾分でも影響をうけないには余りに僕は弱すぎるから」(松岡譲宛て書簡/1917年)という、心細い言葉を残しています。

 

(3)ノートB(個人的解釈)

ここからは、ごく簡単に、作品の個人的解釈を記します(直観的に読んでいるだけなので、資料的な裏付けはありません)。

観音様の授ける運に対する、陶器師と青侍の受け取り方の違いは、それぞれの幸福についての考え方の違いに由来していると、私は考えます。

青侍の方は、即物的なもので、金があれば幸せとか、金があれば結果的に幸せになれるとか、単純に考えているように思われます。

一方で、陶器師の方は、もう少し人生についての、ゆったりとした、広い視野で物事を考えているように見えます。

陶器師の価値観がはっきり示されている箇所は特にないので、直観的な推測でしかありませんが、この老人の幸福に対する考えは、人生や心の平穏までもが視野に入ったものなのではないでしょうか。

青侍は、金があれば好き放題できて自由だ、くらいに思うでしょうが、昔話の中の娘の言う安楽な暮しというのは、恐らく、安定した生活に足るだけの余裕を意味しているに過ぎませんでした。

その安定の意味合いには、単に金があるという事実を超えて、娘らしい、心休まる平穏な生活、という含みもあったでしょう。

それにも関わらず、娘は盗人と夫婦になることを強いられ、意図せずとは言え、尼を死なせてしまいました。

最終的に選択をしたのは娘自身と言えば、それまでですが、この話から娘を幸せ者だと言って疑わない青侍の理解は、余りに粗野であると言わざるを得ません。

もしかすると、生活の中にある一点の曇り、と言えば、それほど珍しいものではないのかもしれません。

しかし、柔らかい魂に点けられた傷が、一体どれほどの苦痛と悲しみをもたらし得るかを考えると、娘の払わなければならなかった代償の大きさが、読者にもよく理解されることと思います。

 

(4)参考図書

芥川龍之介「運」『羅生門・鼻』(新潮文庫)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

 

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