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from my dear Andromeda

孤独な哲学者 後期ニーチェの生涯

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844~1900年)は、1869年、24歳の若さでバーゼル大学の文献学教授となり、作曲家ワーグナーと親交を結びました。

しかし、1876年、バイロイト劇場で試演された<ニーベルンゲンの指輪>以来、ニーチェは心理的にワーグナーから遠ざかり、1878年、両者の親密な関係は最終的な破局を迎えました。

この記事では、ワーグナーと決別し、自由思想家として自立して以後の時期を「後期ニーチェ」として、その生涯を概説していきます。

それ以前の、青年期のニーチェの生涯については、こちらをご覧下さい。

 

 

(1)『ツァラトゥストラ』

①1879年

1879年、多大な影響を受けた作曲家ワーグナーと前年決別したニーチェの、この年の健康状態は最悪でした。

ニーチェは健康状態の悪化から、バーゼル大学を退職し、以後、大学から支給される年金を頼りに自由な思索生活に入りました。

一年の約三分の一もの日を発作に苦しむという極限状況の中、ニーチェは『人間的な、あまりに人間的な』(1878~80年)、『曙光』(1881年6月)の完成を目指し、執筆と構想を進めました。

また、この頃、ニーチェはヴォルテール、スタンダール、メリメ、サント・ヴーヴを読んで共感を覚えたと言います。

一八七九年のその頃、わたしはバーゼルの教職を退いて、その夏いっぱいをあたかも影のような姿でサンクト・モーリッツに過ごし、その冬、すなわちわたしの生涯の中で最も暗い冬を、完全に影となってしまってナウムブルクで過ごした。これがわたしという存在の最小限であった。(自伝『この人を見よ』/1888年)

 

②「永劫回帰」

1881年8月、すでにこの年に『曙光』(6月)を発表していたニーチェは、スイス・シルヴァプラナ湖畔の森の中を散歩中、ニーチェ哲学の根本思想「永劫回帰」の着想を得ました。

ニーチェ哲学の最高峰『ツァラトゥストラ』の前に、襲来した思想を胸中温め、ニーチェが執筆・公刊したのが『悦ばしき知識』(1882年)です。

同書の中では、すでに、ニーチェの「運命愛」や「永劫回帰」が暗示され、白昼に提灯をつけて神を探し回る狂人の姿を通して、「神の死」が示されています。

 

③ルー・サロメ

ニーチェにとって、女性は家政を整え、強い子どもを産み、育てるものでした。

根本的に女性蔑視的なニーチェは、ある時から結婚を拒否していましたが、1882年のローマにて、思いがけず理想の女性と出会います。

友人マイゼンブークのサロンで出会った、帝政ロシアの将軍の娘ルー・サロメは知的な魅力を備えた女性で、後には精神分析学のフロイトや詩人リルケとも親しくなることで知られています。

ローマで、ニーチェ、ルー、友人のレーの三人は非常に親密な関係を築きますが、ニーチェの求婚が失敗したこと、レーもまたルーに恋していたことが結果して、この友情関係は不幸な結末を迎えることになりました。

 

④『ツァラトゥストラ』

1881年8月、シルヴァプラナ湖畔の森で、その哲学の根本思想の着想を得ていたニーチェは、遂に『ツァラトゥストラ』(1883~85年)を完成させました。

ツァラトゥストラとは、善悪二元論で知られるゾロアスター教の開祖ゾロアスターの異名で、ニーチェは同書を、最高の真理を示す、四福音書に代わる「第五福音書」とさえ考えました。

ニーチェはこの主著を、ドイツ語で表現し得る文芸の最高傑作と信じ、その思想が多くの共感を持って迎えられることを確信していましたが、実際には、同書は人々に無視され、敬遠される結果となりました。

ところで、ニーチェの思想家的使命は、次第にその姿を現し始めている、ヨーロッパの虚無主義(ニヒリズム)の内に下降的に生きるのではなく、それを受け入れつつ、より強く、自由で創造的に生きる哲学を示すことでした。

ニーチェ哲学の中心思想である「運命愛」や「永劫回帰」は、ニヒリズムで衰弱した人生を退け、明るく強い人生を生きるための根本原理なのです。

以下、実際には『悦ばしき知識』(1882年)からの引用になりますが、ニーチェの「運命愛」と「永劫回帰」に関する箇所を、ご参考にご紹介致します。

私は、いよいよもって、事物における必然的なものを美と見ることを、学ぼうと思う、――こうして私は、事物を美しくする者たちの一人となるであろう。運命愛――これが今よりのち私の愛であれかし!(「運命愛」について)

最大の重し。――もしある日、もしくはある夜なり、魔神(デーモン)が君の寂寥きわまる孤独の果てまでひそかに後をつけ、こう君に告げたとしたら、どうだろう、――「お前が現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、いなさらに無数度にわたって、お前は生きねばならぬだろう。そこに新たなものは何ものもなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、お前の人生のいいつくせぬ巨細のことどもいっさいが、お前の身に回帰しなければならぬ。(…)」

もしこの思想が君を圧倒したなら、(…)何事をするにつけてもかならず、「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」という問いが、最大の重しとなって君の行為にのしかかるであろう! もしくは、この究極の永遠な裏書きと確証とのほかにはもはや何ものをも欲しないためには、どれほど君は自己自身と人生とを愛惜しなければならないだろうか?(「永劫回帰」について)

 

(2)『ツァラトゥストラ』以後

期待をかけた『ツァラトゥストラ』が思ったような反響を得なかったニーチェは、その失敗が同書の詩的・象徴的性質にあると反省し、今度は論理的・体系的に思想を表現することを試みました。

その努力は生前には完成しませんでしたが、遺稿『権力への意志』では、来るべき世紀をニヒリズムの支配する時代と予言していることが注目されます。

私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来るべきものを、もはや別様には来たりえないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす。この歴史はいまではすでに物語られうる。なぜなら、必然性自身がここではたらきだしているからである。

また、同書では、ニヒリズム克服のための、新たな価値定立原理として「権力への意志」(単純な弱肉強食的な自己保存欲求ではなく、より強く、自由に生きるための生長欲求)を採用する、「たたかう能動的ニヒリスト」の姿が強く示されています。

同書を生前に完成させられなかったニーチェですが、衰弱したヨーロッパ文明を批判し、また、活力を注入することを目的として、この頃、『善悪の彼岸』(1886年)と『道徳の系譜学』(1887年)を発表しています。

前者は、『権力への意志』の予備的な入門として構想されたものでしたが、そのアフォリズム形式が無理解に繋がったという反省から、論文形式の『道徳の系譜学』が続けて発表されました。

また、同じ頃、哲学者ギュイヨーの『義務も制裁もない道徳』(1885年)や、ドストエフスキーの『地下室の手記』(1864年)に、ニーチェは強い共感を覚えています。

発狂の前年、この年のニーチェは多作でした。1888年の作品には、『ワーグネルの場合』、『偶像のたそがれ』、『アンチクリスト』、自伝『この人を見よ』、『ニーチェ対ワーグネル』、『ディオニュソス賛歌』があります。

ドイツでは全く認められなかったニーチェでしたが、フランスの批評家テーヌ、デンマークの文化史家ブランデス、スウェーデンの作家ストリンドベリーなどの好意的な反応を得たことに、ニーチェは幾分か慰められました。

 

(3)発狂、死

孤独、苦痛、不眠に苦しむニーチェは、睡眠剤や怪しげな鎮静剤を愛用し、1888年末頃から精神錯乱の徴候が見え始めました。

この頃、ニーチェはやたらに水をがぶ飲みし、意味不明な手紙を友人に書き、路上の疲れ果てた馬に同情して、その首に抱き着いて激しく泣くなどしたそうです。

私は諸侯会議をローマに召集した。私は若い皇帝を銃殺させようと思う。(ストリンドベリー宛て書簡/1888年)

なお、この年、ドイツではビスマルクと共にドイツ統一を成し遂げた皇帝ヴィルヘルム1世が崩御し、最初フリードリヒ3世が、間もなくヴィルヘルム2世が即位して、第一次世界大戦への歩みが踏み出されています。

1889年1月、ニーチェはイタリア・トリノで突然昏倒し、以後、理性を失いました。

すぐに、ニーチェからの手紙で不安になった友人ブルクハルトの相談で、同じく友人のオーフェルベックがトリノからバーゼルにニーチェを連れ戻しました。

一時、バーゼルの精神病院に入院させられたニーチェですが、その診断は、進行性脳軟化症あるいは脳梅毒と言われます(ただし、真相は不明です)。

一般に、発狂し理性を失ったと言われるニーチェですが、実は、会話や認識の能力を完全に失ったわけではありませんでした。

むしろ、幼児の純真に還り、良い天気や空気を愛し、ピアノを好んで弾いて、人々に優しい思いやりを見せるようになった、というのが真相のようです。

発狂後のニーチェの名声は次第に高まり、療養中のニーチェの下には少なくない訪問客が訪ねてきました。

当時のニーチェとの出会いを、伝記作家のシュテルンベルク男爵夫人は以下のように回想しています。

崇高なかれの態度、精神的な表情の限りなく深められた美、そうしたかれの姿を目のあたりにした時のわたしの心は、大きな感動によって満たされた。(…)

遠方を眺めやるようであって、しかもまた、心の内奥を深く見つめているような、この愁いを深くたたえた瞳からは、力づよい作用が、磁気のような精神の流れが、ほとばしり出ていた。そして、敏感な人間ならだれでも、このあやしい魔力から脱け出ることはできまいと思われた。

1900年8月、ニーチェは突然、高熱と呼吸困難を伴う風邪に襲われました。

一時は回復するかとも思われましたが、静かに目を閉じたニーチェは、妹エリーザベトに看取られながら、安らかな、永遠の眠りにつきました。

しかし、時代は、ニヒリズム、第一次世界大戦、全体主義の新世紀の到来を、その眉をひそめながら、憂わし気に、告げているのでした。

 

(4)参考図書

工藤綏夫『人と思想 ニーチェ』(清水書院)

氷上英廣『ニーチェとその時代』(岩波書店)

 

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