History & Space for a Break

from my dear Andromeda

19世紀 フリードリヒ・ニーチェの時代

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844~1900年)はプロイセン領ザクセンの田舎町レッケンで生まれました。

ニーチェはライプツィヒ大学卒業後、24歳の若さでスイス・バーゼル大学の文献学教授となり、スイスで作曲家ワーグナー(1813~83年)と親交を持ちました。

その後、ワーグナーに大衆迎合的な態度を見たニーチェは思想家として自立し、『ツァラトゥストラ』(1883~85年)で、「運命愛」、「永劫回帰」など、ニーチェ哲学の根本思想を示しました。

この記事は、19世紀後半を生きたニーチェを意識しながら、当時のヨーロッパ(あるいはドイツ)を理解することを目的としています。

以下、ニヒリズム到来の予言者・ニーチェの時代を通覧していきます。

 

 

(1)ドイツ経済前史

世界に先駆けて産業革命を成し遂げたのはイギリスです。

1789年には、綿紡績の町マンチェスターの工場で蒸気機械が実用化され、カール・マルクスの相棒エンゲルスが当地を訪れた1842年頃には、町の人口は40万人を数える程に成長していました。

同じ頃、ドイツ・ライン地方最大の都市ケルンの人口が7万人程度だったことを考えると、マンチェスターの規模の巨大さが分かるかと思います。

ドイツはイギリスやフランスと比べると、やや遅れて産業革命を迎えました。

18世紀から引き継いだドイツ経済の基本は農場領主制(グーツヘルシャフト)で、地主貴族(ユンカー)が隷属的農民を支配する封建的社会でした。

しかし、皇帝ナポレオン(在位1804~14年)による西ドイツ支配や、フランスに対抗したプロイセンの改革によって、ドイツにも産業革命の余地が生まれました。

ナポレオン以後のヨーロッパを決定したウィーン会議(1814~15年)の結果、ドイツに39の諸邦から成るドイツ連邦が結成されました。一方で、近代的統一国家の形成という課題は残されました。

その後、新たにドイツ関税同盟が結成されました(1834年)。

これは、加盟国相互の関税を撤廃し、更に、イギリスなどの製品に保護関税を設けたもので、ドイツ経済発展の基礎となりましたが、ドイツ統一への一歩、また新興の産業市民階級の勝利としても注目されます。

 

(2)ニーチェの生きたドイツ

①二月革命の「敗北」

ニーチェは1844年、プロイセン領ザクセンの田舎町レッケンに生まれました。

フリードリヒ・ヴィルヘルムの名は、ニーチェの誕生日が偶然、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(在位1840~61年)と同じであったことに由来しています。

ニーチェ誕生の頃のヨーロッパ史的大事件は二月革命(1848年)です。

1845~47年頃のヨーロッパはジャガイモの疫病と穀物の不作による食料難に苦しんでいました。

アイルランドのジャガイモ飢饉(主食であったジャガイモの不作による)が特に有名ですが、このような状況にも関わらず、商人が穀物等を買い占めたため、庶民は食料価格の高騰にも苦しまなければなりませんでした。

食料価格高騰による経済的危機を一方の背景に、選挙権の拡大や議会制度の改革を求める市民層、また労働者の保護を求める労働者層がフランス・パリで蜂起した事件が二月革命です。

革命の結果、フランスでは王制が一時廃され、共和制が勝ち取られました。

また、革命はドイツやオーストリアにも及び(三月革命)、ベルリンでは国王がドイツ統一と自由への尽力を約束させられ、ウィーンではヨーロッパの自由主義を抑圧してきたメッテルニヒが失脚しました。

革命はヨーロッパの自由主義の勝利を告げているかのように思われました。

しかし、フランスでは48年末に大統領に就任したルイ・ナポレオンが、52年に国民投票によって皇帝に即位(ナポレオン3世/在位1852~70年)したため、共和制は終わりを迎えました。

また、ドイツでは革命に勝利した産業市民階級が、今度は労働者に対する危険意識から、地主階級(ユンカー)と協力して、自由主義・民主主義よりも、軍国主義的、国民主義的発展を求める道を歩み始めました。

後述するドイツの統一(1871年)は、その流れの一つの結晶です。これが、19世紀前半とニーチェの生きたその後半期の、時代的文脈の違いと言えます。

 

②ドイツ帝国の成立

ドイツ統一を主導したのは、1862年にプロイセン首相となったビスマルクです。彼は統一における対話路線を捨て、武力による統一を主張しました。

ウィーン会議によるプロイセンの国境は、健全な国民生活にとって有利とは思われぬ。現代の大問題は言論や多数決によってではなく――そう思ったのが一八四八・四九年の大まちがいであった――鉄と血によって決せられる。(1862年)

以上が、ビスマルクによる「鉄血政策」の論旨です。

ビスマルクに導かれたプロイセンは、まず、シュレスヴィヒ・ホルシュタインの管理問題でオーストリアと共にデンマークと戦い(デンマーク戦争/1864年)、次に同じ問題でオーストリアと戦いました(普墺戦争/1866年)。

普墺戦争の結果、ウィーン会議以来のドイツ連邦は解消され、西南ドイツとオーストリアを除く北ドイツ連邦が成立しました。

ドイツ統一の障害の一つであるオーストリアを降したプロイセンの残る敵は、ドイツの西方に控えるフランスでした。

しかし、プロイセンはそのフランスをも屈服せしめることに成功し(普仏戦争/1870~71年)、ヴェルサイユ宮殿にて、西南ドイツを含むドイツ帝国の成立が宣言されることになりました(1871年)。

その後、ドイツは帝国宰相ビスマルクの下、フランスから得た多額の賠償金、石炭・鉄鉱の豊富なアルザス・ロレーヌ地方、保護関税政策などにより、急速な経済成長を遂げました。

事実、早くも80年代の終わりには、ドイツは工業生産力でイギリスを抜き、アメリカに次ぐ第二位の経済大国の地位を得ています。

また、軍事的にはイギリス中心の国際秩序を脅かし、新帝ヴィルヘルム2世(在位1888~1918年)の下、第一次世界大戦へと足を進めていくことになりました。

 

③ニーチェとドイツ帝国

普墺戦争(1866年)勃発時のニーチェは、ライプツィヒ大学の学生でした。

愛国心に燃えるニーチェは、志願して徴兵検査を受けますが、強度の近視で、二度検査を落ちてしまいます。

しかし、1867年10月、遂に徴兵検査に合格し、育ちの町ナウムブルクの騎馬野戦砲兵連隊に入隊し、馬の世話や砲身の掃除を真面目に勤めました。

この頃のニーチェは、ビスマルクに対して好意的な発言を残しています。

ビスマルクは僕を大いに満足させてくれる。彼の演説を読んでいると僕は強いワインを飲むような気持だ。(ゲルスドルフ宛て書簡/1868年)

また、普仏戦争(1870~71年)の際にも、ニーチェは志願して入隊しています。

1870年8月、ニーチェは看護兵として、フランスの激戦地メッスを訪れています。この時、ニーチェはすでに大学を卒業し、スイス・バーゼル大学で文献学教授となっていました。

ニーチェは重症兵を貨車でドイツの病院へ護送する任務に就きましたが、自分自身、赤痢とジフテリアにやられ、間もなく除隊となりました。

この戦争の過程でニーチェが得たのは、盲目的な愛国心ではなく、ドイツ帝国(プロイセン)への(文化的観点からの)鋭い批判の目でした。

これからの文化の状況が僕には心配でならない。(…)内証の話だが、僕は現在のプロイセンを、文化にとってきわめて危険な力だと思っている。(ゲルスドルフ宛て書簡/1870年11月)

その後、ニーチェの著した『反時代的考察』(1873~76年)は、ドイツの軍事的勝利を文化的勝利と錯覚することを痛烈に批判したもので、ドイツの俗物根性を徹底的に拒否しています。

 

(3)ニーチェ思想の文脈

19世紀のヨーロッパを特徴付けた思想は少なくありませんが、ここでは実証主義と社会主義を取り上げます。

実証主義は文字通り実証(経験)を重視するもので、経済的勝者となった新興産業市民階級の生活経験への自信が、その一つの背景を成しています。

ダーウィンの進化論(『種の起源』/1859年)の受容の背景にも、産業市民階級の弱肉強食的な社会観があったことを考えれば、これらは似た流れの中に位置づけられると言えます。

もう一方にあるのが社会主義(共産主義)です。

二月革命(1848年)では、産業市民階級と労働者が共同で勝利を勝ち取ったかのように見えましたが、それ以前から、労働者はその権利獲得において、他の階級を頼らずに、自力での救済が求められていることを痛感していました。

マルクスが『共産党宣言』を発表したのは1848年2月、二月革命の前夜であり、組織的な社会主義の運動は、以後、更に本格化することになりました。

このような思想潮流の中で、実際派的な実証主義にも、社会主義の革命運動にも根を下ろすことのできなかった浮動層が、知識階層(ロシア語を使用すれば、インテリゲンツィア)です。

特に、ロシアのインテリゲンツィアの苦悩は深刻で、圧倒的なツァーの支配と、無知で革命性に乏しい農民との間で、彼らは教養(西洋の自由・民主主義思想)に途方もない虚しさを感じていました。

このような虚無感を最初に問題にしたのが、西洋ではショーペンハウアー(『意志と表象としての世界』/1819年)やキルケゴール(『死に至る病』/1849年)でした。

ロシアでは、ツルゲーネフが『父と子』(1862年)で虚無主義者(ニヒリスト)の青年主人公を、また、ドストエフスキーが『罪と罰』(1866年)や『悪霊』(1870年)などにおいて、知識階層の苦悩を描いています。

ニーチェが自己の使命としたのは、虚無主義(ニヒリズム)によって下降的に生きるのではなく、ニヒリズムを受け入れた上で、より強く、自由で創造的な人生を送るための哲学を世に示すことでした。

その哲学の根本思想である「運命愛」や「永劫回帰」は、『ツァラトゥストラ』(1883~85年)によって示されましたが、発表時、ニーチェは全く理解されませんでした。

1889年1月、ニーチェはイタリア・トリノで突然昏倒し、理性を失いました。ニーチェの名声が高まり始めたのは発狂後のことでしたが、この孤独な哲学者は1900年、妹に看取られながら息を引き取りました。

ニーチェは後世に二つの予言を残した、と言っていいかもしれません。最後にその二つの言葉を紹介して、結びとしたいと思います。

私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来るべきものを、もはや別様には来たりえないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす。この歴史はいまではすでに物語られうる。なぜなら、必然性自身がここではたらきだしているからである。(遺稿『権力への意志』)

わたしはいま、君たちに命ずる。わたしを捨てて、君たちじしんを見いだすことを。君たちのすべてがわたしを否定して自立することができたとき、そのときにこそわたしは、君たちのもとに帰ってくることとなろう。(『ツァラトゥストラ』第一部)

 

(4)参考図書

工藤綏夫『人と思想 ニーチェ』(清水書院)

氷上英廣『ニーチェとその時代』(岩波書店)

河野健二『現代史の幕あけ―ヨーロッパ1848年―』(岩波新書)

土屋保男『マルクス エンゲルスの青年時代』(新日本出版社)

 

(5)関連記事

青年ニーチェ ワーグナーとの決別と自立 - History for a Break

孤独な哲学者 後期ニーチェの生涯 - History for a Break