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from my dear Andromeda

青年ニーチェ ワーグナーとの決別と自立

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844~1900年)は、プロイセン領ザクセンの田舎町レッケンで生まれ、ライプツィヒ大学卒業後、24歳の若さで、スイス・バーゼル大学の文献学教授となりました。

青年期のニーチェが強い影響を受けた代表的人物は、作曲家ワーグナーと厭世主義の哲学者ショーペンハウアーです。

この記事では、ワーグナーとショーペンハウアーを批判的に克服して、自由思想家として自立するまでの青年ニーチェの生涯をご紹介致します。

なお、ワーグナーとの決別後の生涯については、こちらをご覧ください。

 

 

(1)田舎町レッケンに生まれる

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは1844年、プロイセン領ザクセンの田舎町レッケンに生まれました。

父はルター派の牧師で、父母ともに聖職者の名門の家庭出身でした。

特に、父方の家系はプロテスタント信仰を守るために亡命してきたポーランド貴族にまで遡ることができ、ニーチェはこれを誇りとしました。

妹エリーザベトは幼い頃から兄を権威として慕いましたが、彼女は以下のような兄の言葉を伝えています。

わたしども二人は嘘をついてはならない。なぜならそれは、ポーランド貴族家の出の者にふさわしくないのだから。他人は嘘がつきたければいくらでもつくがいい。だが、わたしたち二人はただ誠実あるのみだ。

父は1841年、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(在位1840~61年)の寵を得て、レッケンの牧師に就任しました。

父の国王敬愛の念は深く、ベルリン三月革命(1848年)の際、国王が市中を逃げ回ったという新聞報道に接した時は、激しく涙したと言います。

また、ニーチェは偶然国王と同じ誕生日に生まれ、これを喜んだ父によって、フリードリヒ・ヴィルヘルムの名がつけられました。

いずれ、宮廷牧師としてベルリンに招かれるかとも思われた父ですが、ニーチェ5歳の年に亡くなってしまったため、以後、ニーチェは主に母に育てられました。

 

(2)ライプツィヒ大学

すでに、ギムナジウム(プフォルタ学院)で人文主義的な古典教育を受けていたニーチェは、1864年10月、ライン河畔のボン大学に入学しました。

ボン大学にはリッチュルやヤーンといった優れた学者がいて、批判的・実証的方法でギリシア・ローマの古典を研究する、19世紀的な科学的な歴史研究態度に、知的厳密さを訓練されました。

しかし、ニーチェが師事したリッチュルが翌年にライプツィヒ大学に移ったため、ニーチェもその後を追って、1865年からの約4年間はライプツィヒで過ごしました。

ニーチェは古本屋の離れに下宿しましたが、ライプツィヒに来てすぐの頃、ニーチェはその古本屋で、ショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』(1819年)を偶然発見しました。

ショーペンハウアーの哲学は、全ての表象(現象)の背後には意志があり、世界の無秩序は必然的であって、人間はその苦悩の慰めとして、哲学、芸術、宗教を持つに過ぎないという、厭世主義的なものでした。

ショーペンハウアー発見の感激を、ニーチェは以下のように書き残しています。

わたしは、すぐさま、あの精力的で陰鬱な天才の筆に魅了されてしまった。ここでは、一行一行がことごとく断念の、否定の諦観の叫びを発していた。わたしはここに、世界と人生とそしてわたしじしんの情緒とを、ものすごく大規模に映し出している一つの鏡を見た。ここでわたしを凝視しているのは、芸術のもつ無私にして完璧な太陽の眼であった。(『手記』)

もう一つの大きな出会いが、31歳年長の作曲家ワーグナー(1813~83年)と面識を得たことでした。

ニーチェはワーグナーが名声を得る以前、すでにギムナジウム時代に<トリスタンとイゾルデ>のピアノ用楽譜を手に入れ、その音楽を高く評価していました。

1868年には<マイスタージンガー>の初演がミュンヘンであり、同じ年、ニーチェはライプツィヒでこの音楽を聴く機会を得ました。

更に幸運なことに、ニーチェはリッチュル教授夫人がワーグナーの姉の友人であったという縁から、ライプツィヒ滞在中のワーグナーに直接会うことができました。

ニーチェはこの日のため、特別製の仕立服を注文してワーグナーに会いに行き、お互いに特別な印象を受けましたが、二人の交友が本格的に始まるのは、後述するバーゼル大学教授時代のことでした。

 

(3)バーゼル大学教授

①スイスでの交友関係

在学中に書いた論文が高く評価された関係で、ニーチェは1869年、24歳という若さでスイス・バーゼル大学の文献学教授に招聘されました。

スイスでニーチェは何人かの友人を得ましたが、その一人は芸術史教授で、ルネサンスの歴史家ブルクハルト(1818~97年)でした。

二人はショーペンハウアーの哲学に心酔し、芸術と文化を愛し、天才の偉業を讃えるという共通点を持っていました。

1871年、パリ・コミューンの暴動でルーブル美術館が焼失したという誤報に接した時には、二人寄り合ってすすり泣いたと言います。

もう一人の友人は、原始キリスト教の精神から遠ざかった近代キリスト教を痛烈に批判した教会史教授オーフェルベックで、彼は後にニーチェがイタリア・トリノで発狂した際に、ニーチェをトリノからバーゼルへ連れ戻す役割を果たしました。

しかし、最も重要と思われるのは、この頃、ニーチェとワーグナーとの間に、非常に親密な関係が生まれたことです。

当時、ワーグナーはスイスに滞在していて、ニーチェは1869年5月、ワーグナー夫妻を訪れて親交を結び、夫妻がバイロイトへ移転した1872年までの間に、ニーチェは二十三回夫妻を訪問したと言います。

当時のワーグナーの印象を、ニーチェは友人ローデに以下のように語っています。

豊饒な、ひとをゆさぶらずにはおかぬ人生がここにある。凡庸な人間どものなかで、これはまったく無類な、未曾有なものだ! しかも彼は自分の力でしっかりと根をおろし、その眼を一切の頼りないかげろう的な存在の彼方に向けており、最も美しい意味で反時代的だ。(ローデ宛て書簡/69年8月)

 

②『悲劇の誕生』(1872年)

ライプツィヒ大学在学中に起きた普墺戦争(1866年)に際しても、志願して入隊していたニーチェでしたが、今度は普仏戦争(1870~71年)の勃発を見て、看護兵として戦地へ赴きました。

ニーチェはフランスの激戦地メッスを訪れ、重症兵を貨車でドイツの病院まで護送する任務に就きましたが、自分自身、赤痢とジフテリアに冒されて、間もなく除隊となりました。

燃えるような愛国心に突き動かされていたかのように見えたニーチェですが、普仏戦争後の態度は変わって、プロイセン(ドイツ帝国/1871年成立)の軍国主義を文化的観点から疑問視するようになりました。

また、普仏戦争の激戦地を目の当たりにしたことで、この時、ニーチェは有名な「権力意志説」の着想を得ました。

妹エリーザベトによれば、ニーチェは以下のように語ったと言います。

戦闘と死に立ち向かい、実にみごとに生活力や闘争心を発揮し、打ち勝って支配者となるか、さもなければ滅亡するかという民族の命運を賭けて、隊列が疾駆していくのを目前にした時、その時わたしは、はじめてこう感じたのだよ、リースベト。

生きようとする最強で最高の意志は、生存のための闘争などという惨めな形で現れるものではない。それはむしろ積極的に戦おうとする意志、権力と優位への意志として現れるのだ!と。

普仏戦争後、ニーチェが取り組んだ処女作が『悲劇の誕生』(1872年)です。

この作品は、超越的真理を人生の目的に据えるソクラテス以後の西洋哲学の伝統を批判し、ギリシア悲劇時代の、暗黒と破壊を積極的に受け入れた本来の自然的人間像を賛美したものです。

しかし、その芸術的な筆致が学問的厳密性を重んずる文献学会に嫌われ、同書は受け入れられず、ニーチェは以後、真の芸術を理解しない「教養俗物」への反発を強めていきました。

 

③ワーグナーとの決別

1873~76年にかけて、ニーチェは『反時代的考察』に収められた一連の論文を発表していきました。

これらは、普仏戦争の軍事的勝利を文化的勝利と錯覚することを批判し、また、ドイツの「教養俗物」を徹底的に拒否するものでした。

一方、その一部をなす論文「バイロイトにおけるリヒァルト・ワーグナー」はワーグナーを賛美したもので、ワーグナー本人を歓喜させました。

しかし、この頃のワーグナーに対するニーチェの心情は微妙で、ワーグナーの仲間の中に「俗物」が混じっていることなどが、ニーチェには不満でした。

ニーチェがワーグナーに強く幻滅したのは、1876年、完成したバイロイト劇場で<ニーベルンゲンの指輪>の試演が行われた際、反俗的な芸術的良心を持つはずのワーグナーが聴衆に迎合している様子を見た時でした。

ニーチェは失望から途中で席を立ち、近郊の森に逃げ込んで、『人間的な、あまりに人間的な』(1878~80年)の最初の覚書を書きました。

その後も、しばらくの間は、ニーチェとワーグナーの関係は表面的には決定的な終わりを迎えることはありませんでしたが、最終的な決別は1878年に訪れました。

この年、ワーグナーが宗教への帰依を表現した<パルジファル>をニーチェに贈ったのに対し、ニーチェが宗教からの離反を告げた『人間的な、あまりに人間的な』を代わりに贈ったことが、ワーグナーを激怒させたのです。

しかし、ワーグナーとの親密な関係を、ニーチェは生涯大切にしました。

(ここで)わたしをもっとも深く、また心から慰めてくれたものに感謝するために、わたしは一言する必要がある。それは疑いもなく、リヒアルト=ワーグネルとの親密な交わりであった。

わたしは、これ以外の人間関係は無くしてもかまわないが、トリプシェンで過ごしたあの、親愛と快活と崇高な日々、――あの深い瞬間の日々だけは、どんなことがあってもわたしの生活から取り去らせはしない。(自伝『この人を見よ』/1888年)

ニーチェが贈った『人間的な、あまりに人間的な』は、ワーグナーとショーペンハウアーの批判的克服でもあり、ワーグナーとの決別は、同時に、ニーチェが自由思想家として自立したことを意味するものでもありました。

 

(4)参考図書

工藤綏夫『人と思想 ニーチェ』(清水書院)

竹田青嗣『ニーチェ入門』(ちくま新書)

氷上英廣『ニーチェとその時代』(岩波書店)

 

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