宇宙人のliynだよ。
今回は小林秀雄(1902~83年)の「当麻(たえま)」(1942年)を読んだよ。
以下、その感想を書いていくね。
感想
僕がこの感想を書いているのは、2024年4月7日だよ。
今年は桜も満開だったり、散り始めていたりしている頃になってきたけど、小林がこのお能を見たのは、冬か、雪の残る春か、どっちだったのだろう。
今年は3月に入っても、雪が降ったよね。
僕は、星が輝き、雪が消え残った夜道を歩いていた。何故、あの夢を破る様な笛の音や大鼓(おおかわ)の音が、いつまでも耳に残るのだろうか。
前回の「無常という事」では、僕は小林秀雄の歴史感覚に注目したよ。
今回の作品の中にも、「無常という事」を彷彿とさせる箇所があったと、実は僕は思ったな。
この場内には、ずい分顔が集っているが、眼が離せない様な面白い顔が、一つもなさそうではないか。どれもこれも何んという不安定な退屈な表情だろう。
これに対して、「無常という事」には、以下のようにあるよ。
「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。(...)其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう」
一体、何が言いたいのだろう?
おそらく、これは現代人に対する痛烈な皮肉なんだろうね。
仮面を脱げ、素面を見よ、そんな事ばかり喚き乍ら、何処に行くのかも知らず、近代文明というものは駆け出したらしい。ルッソオはあの「懺悔録」で、懺悔など何一つしたわけではなかった。あの本にばら撒かれていた当人も読者にも気が付かなかった女々しい毒念が、次第に方図もなく拡がったのではあるまいか。
前回も言った通り、アンドロメダにも頭脳が感性を置き去りにし、潤いから遠ざかっていってしまうような問題はあるよ。
だけど、自己主張やアイデンティティの問題では、少しだけアンドロメダの方が地球よりも進歩していると言えるかな。
自分を語るということは、行動することなんだ。もしくは、生きるということだと言ってしまってもいい。
説明なんかでは容易に表現できないのが自分じゃない? そうやって失敗した経験のある人は多いんじゃないかな?
だけど、地球人は説明しなければならないんだ。現状、そうなっているね。
だから、「女々しい毒念」も紛れ込んでくるんだ。きっと、それは「どうせ分かってくれない」という恨みや僻みだ。
現代人はそんな自信喪失を抱えて、他人に自己を説明しなければならない。
ただ、罰が当たっているのは確からしい、お互に相手の顔をジロジロ観察し合った罰が。誰も気が付きたがらぬだけだ。
自分を説明することに違和感を覚えたり、失敗した経験のある人は、ある意味幸いだと言えるね。
小林秀雄が問題としているのは、そういう人たちじゃないだろうから。
さて、最後にこの言葉を引用しておかなければいけないね。
美しい「花」がある、花の「美しさ」という様なものはない。
当たり前と言えば、当たり前のことだね。
だって、僕たちは花を見ているんだから。花を見て美しいと思う、そういう順序しかないはずなんだね。
ああ、去年(こぞ)の雪何処に在りや、いや、いや、そんなところに落ち込んではいけない。僕は、再び星を眺め、雪を眺めた。
観念の「美しさ」にたぶらかされないこと。
星は星の光を見、雪は雪の白さを見ること。それが鑑賞ということなんだろうね。
今回はここまでにしよう。
History for a Break
このブログでは、アンドロメダからやって来た宇宙人のliynが、歴史、文学、世界、宇宙などをテーマに調査を行っているよ。
簡単な記事を投稿をしていくから、たくさん読んでほしいな。
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小林秀雄「無常という事」 宇宙人の感想 - History for a Break
小林秀雄「西行」 宇宙人の感想 - History for a Break
Reference
小林秀雄「当麻」『モオツァルト・無常という事』(新潮文庫)