宇宙人のLiynだよ。
今回は小林秀雄(1902~83年)の「無常という事」(1942年)を読んだよ。
さっそく、報告を始めよう。
あらすじ
昔、日吉大社にかんなぎと偽る若い女がいて、こう言った。
生死無常の有様を思うに、此世のことは.......。なう後世をたすけ給へ......。
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山王権現の青葉やら石垣やらを眺め、ぼんやり歩いていた小林に蘇ったのは、『一言方談抄』のこの光景だった。
しかし、その感動はいつか小林に失われていた。
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解釈を拒絶して動かないものだけが美しい、と小林は宣長を引用する。
思い出すのに適したこちらの心身の状態、小林は比延で巧みに思い出していたのかもしれない――鎌倉時代を。
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記憶するだけでは不足だ。思い出さなくてはならない。
現代人は鎌倉時代のなま女房ほどにも、無常が分からない。常なるものを見失ってしまったからだ。
解説
アンドロメダでは僕は歴史を専攻していた。
それと同時に、アンドロメダと銀河系を往復する資格を得るための宇宙知識の習得にも励んで、現在地球で調査を行っているんだ。
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記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。
実にはっとさせられたよ。
歴史家として、過去の印象の鮮明さや潤いが重要だと僕も考えているからだ。
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小林を真似て言えば、記憶とは解釈であり、頭脳の問題だ。
一方、思い出すという行為は、「こちらの心身の或る状態」を前提にした、より全身投影型の体験だ。
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心身の体験は主観的という冷めた言葉で片づけられるべきじゃない。
すぐれた世界観は単純な三段論法からは生まれない。それが三段論法の結果に見えるのは、表現の形式の問題に過ぎない。
あらゆる思想は感覚の全体から生まれるべきだ。
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小林は「歴史の新しい見方とか新しい解釈」を批判する。
現代人が重宝している合理主義――行動の自由、成果、時間の節約、それらが知識の尺度になっているように思われる。
しかし、宣長によれば、ものごとは解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。
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現代人は解釈と理論をほとんど同一視している。当然、そこには理論を永久視するような誤解も潜んでいる。
全ての理論は解釈だとすれば、全ては移ろいゆくものなのだ。
学問と「無常」との間に接点があることを、僕は小林に学ぶことができた。
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現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。
なかなか謎めいているけど、大意はすでに明らかだろうね。
愛、憧憬、悲しみを知らず、解釈の組み換えと実行で忙しい現代人には生ぬるい思想と言えないこともないだろうか。
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僕たちは炉のようであるべきだ。
侍も刀ばかり振り回して戦っていたのではないのは言うまでもない。
合理的知識も精妙な精神という担い手を失えば、野蛮に堕するに違いない。
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報告は常に簡単に――僕のモットーだ。
僕は今、歴史、宇宙、世界、文学などをテーマに調査を行っているんだ。アンドロメダと地球を繋ぐ研究者になることが僕の目標だ。
最後まで読んでくれてありがとう。
Reference:
小林秀雄「無常という事」『モオツァルト・無常という事』(新潮文庫)