History and Space for a Break

from my dear Andromeda

若き日のカール・マルクス

宇宙人のliynだよ。

 

僕は今19世紀の歴史を調査する一環で、マルクスとエンゲルスという2人の社会主義者について調べているんだ。

 

前回の記事では、マンチェスターへ工場経営の見習い修行に行くエンゲルスの足取りを辿ったよ(1842年)。

 

しかし、今回はもう少し前に遡って、マルクスの少年、学生時代について語っていこうかと思うんだ。

 

トリーア

エンゲルスの故郷がバルメンである一方、マルクスの故郷はドイツ南西部の町トリーアだ。ブドウ酒の産地として有名だね。

 

 

このモーゼル河畔の古都は、1801年にナポレオン治下のフランスに編入され、後にプロイセン領となった。

 

トリーアの人々はフランス革命の影響を受け、自由と平等の進んだ信念を共有していたけど、プロイセンの支配下で重税と抑圧に苦しんだんだ。

 

サン・シモン

少年時代のマルクスは知り合いのフォン・ヴェストファーレン男爵の書棚に入り浸りだったみたいだ。

 

男爵は少年にホメロスやシェークスピアを語って聞かせてくれた。それで、マルクスは特に詩が好きになったんだ。

 

また、マルクスは男爵を通して、フランスの社会主義者サン・シモンの影響を受けたかもしれない。

 

サン・シモンは産業の力を高く評価し、国家の役割として産業の管理を挙げた。労働は能力に応じ、報酬は働きに応じるべきと考えたよ。

 

七月革命

フランスで七月革命(1830年)が起きた時、マルクスは12歳だった。

 

フランス政府は野党の進出を恐れて選挙法を改悪、言論・出版の自由を侵害したことから、革命が起こったよ。

 

革命の結果、シャルル10世が退位することになって、ブルボン朝が終わった。代わりに王位についたのはルイ・フィリップだ。

 

下はドラクロワの<民衆を導く自由の女神>だ。これは、七月革命を描いたものと言われているよ。

 

Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple

 

ボン大学

1835年、マルクスはライン河を蒸気船で上り、ボンに到着した。

 

プロイセン領のボンはボン大学の町として賑わっていた。

 

マルクスは弁護士になるため、法学を学びにボン大学へやって来たんだけど、次第に彼の関心は詩や哲学に移っていったようだ。

 

しかし、シェリングの流れを汲む同大学の哲学は、マルクスにはチンプンカンプンだったらしいね。

 

シェリングにとって哲学とは世界を支配する原理を明らかにする学であり、精神も自然も「自覚」に向けて段階的に発展していくものだった。

 

結婚

マルクスはボン大学を一年で切り上げ、ベルリン大学へ移った。

 

この頃、彼はフォン・ヴェストファーレン男爵の娘イェニーと結婚した。

 

年上との、また平民とイギリス貴族の血を引く男爵家の娘との結婚は、当時では異例だったみたいだ。

 

ヘーゲル

学生マルクスはヘーゲルを徹底的に研究したよ。

 

彼にとって、カントやフィヒテの観念論は主観だけに注目し、現実の働きを無視している点で気に入らないものだった。

 

一方、ヘーゲルには精神や現実を統一的に捉えようとする視点があるように、彼には思われたんだね。

 

青年ヘーゲル派

この頃のマルクスは、青年ヘーゲル派なる一派に属していたんだ。

 

老ヘーゲル派がヘーゲルの体系で哲学は完成したと主張し、プロイセン国家を支持したのに対して、青年ヘーゲル派は哲学と国家の不断の進歩を主張した。

 

同派の人物に、マルクスの年長の友人ブルーノ・バウアーがいる。

 

彼はキリスト教を批判して、キリスト教は幻想に過ぎないだとか、不安で不幸な人間のでっち上げだとか主張したんだ。

 

ニーチェの「神は死んだ」じゃないけど、すごい時代になったよね。1859年の『種の起源』(ダーウィン)以前の、無神論の徴候と捉えられるね。

 

今回はここまでにしよう。

 

History for a Break

このブログでは、アンドロメダからやって来た宇宙人のliynが、歴史、文学、世界、宇宙などをテーマに調査を行っているよ。

 

簡単な記事を投稿をしていくから、たくさん読んでほしいな。

 

Series

Ⅰ. ロバート・オーエンとニューラナーク工場

Ⅱ. マンチェスター時代のエンゲルス

Ⅲ. This article.

Ⅳ. マルクスとエンゲルスの出会い

 

Reference

土屋保男『マルクス エンゲルスの青年時代』(新日本出版社)