宇宙人のliynだよ。
1813年10月、ナポレオンはライプツィヒで大同盟に敗れた。
その結果、彼はエルバ島に流され、ルイ18世のブルボン朝が復古した。
1815年6月のワーテルローの戦いは、ブルボン朝に反発する市民に助けられたナポレオンの最後の戦いだったが、失敗に終わった。
その間、1814年9月から翌15年6月まで、大陸ではある会議が開かれていた。
それが、ウィーン会議だ。
ウィーン会議
ナポレオン戦争の戦後処理問題を討議する目的で、オーストリアの首都ウィーンで会議が開かれた。
議長はオーストリア外相メッテルニヒだ。
これは「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたけど、ねばり強い交渉で数多くの参加国をまとめ、一定の成果を得た。
基本原則
ウィーン会議の基本原則は「正統主義」と「勢力均衡」だった。
正統主義とは、大国の介入でフランス革命以前の諸王朝の復活、維持を目指す考え方のことだ。
一方、勢力均衡とは、ある一つの大国が他の国々を征服しないよう、同盟を組んでそれを抑え込むという考え方のことだよ。
また、ロシアのアレクサンドル1世の「神聖同盟」の考え方もあった。これは、キリスト教的な原則に基づく大小諸国の団結と平和の構想だ。
しかし、メッテルニヒはロシア主導の動きに警戒していた。
ウィーン体制
こうして、偶発的な戦争でなく、大国間の会議でヨーロッパの紛争を処理し、大戦争を防ぐというウィーン体制が構築された。
その最初の中心地はオーストリアで、メッテルニヒが采配した。
問題は、それが大国主導で小国の意志を軽視しがちであること、また、自由主義的な革命を抑圧するものだったことだ。
イギリスなどは、ウィーン体制に必ずしも賛成ではなかったようだ。
介入
1820年には、スペインとナポリで立憲主義的な革命の動きが生じていた。
ロシアによるスペインへの干渉は否定された。
一方、1821年2月、オーストリア軍はナポリに侵攻し、革命を鎮圧した。
自由主義的な革命を大国間の会議で処理し、未然に防止するというウィーン体制の目的をメッテルニヒが上手く機能させた瞬間だった。
ラテンアメリカ
大航海時代以来、スペインとポルトガルはメキシコからマゼラン海峡までに巨大な帝国を築いていた。
しかし、ナポレオン戦争の結果、アルゼンチン、チリ、ペルー、コロンビア、メキシコなどが独立を宣言した。
カースルレイの後の外相カニングは、主に通商の利益から独立に賛成だった。
ロシアとイギリス
メッテルニヒの主導的立場が崩れ始めた。
ギリシャ独立問題(1821~29年)で、オーストリアではなく、サンクト・ペテルブルクやロンドンを舞台に会議が開かれたからだ。
特にカニング英外相は、メッテルニヒの専制主義的なやり方に反対だった。
ロンドンでの会議で決定された和平案をオスマン帝国が無視したため、彼らはギリシャに独立権を付与する強硬路線を目指し始める。
ロンドン会議
1830年、フランスでまたもや革命が起こった(七月革命)。
原因は不景気と、政府が言論・出版の自由を抑圧したことだった。
その結果、シャルル10世が亡命してブルボン朝が終わり、ルイ・フィリップが新たに王位に就いた(七月王政)。
七月革命に刺激されて、ベルギーで独立闘争が生じた。ウィーン会議で取り交わされた議定書で、ベルギーはオランダ領になっていた。
カニングの後を継いだパーマストン英外相はロンドン会議を開催した。メッテルニヒのやり方に反発する彼は、ベルギーの独立と永世中立国化を実現した。
二月革命
1848年、フランスで再びの革命が生じた。二月革命だ。
先のルイ・フィリップは退位し、第二共和政が始まった。革命はウィーンやベルリンにも波及して、メッテルニヒが辞任した。
革命が大戦争に発展しなかったのには、一つにはパーマストンの働きがある。
特に、彼はシュレスヴィヒ・ホルシュタイン公国の領有問題でデンマークとプロイセンとの間に紛争が生じたとき、ロンドンでこれを調停した。
崩壊
ウィーン体制の崩壊は、フランスでナポレオン3世が、国民投票により皇帝となった瞬間から始まった(1852年)。
ナポレオン3世の野望で、フランスはトルコから聖地イェルサレムの管理権を得ることになった。ロシアがこれに反発した。
紛争はついに、ロシアがオスマン帝国へ侵攻するという事態に発展した。
一方、これに脅威を覚えた英仏は共同してロシアに宣戦布告した。大国間の協調によるウィーン体制は、こうして崩壊した。
今回はここまでにしよう。
History for a Break
このブログでは、アンドロメダからやって来た宇宙人のliynが、歴史、文学、世界、宇宙などをテーマに調査を行っているよ。
簡単な記事を投稿をしていくから、たくさん読んでほしいな。
Reference
君塚直隆『近代ヨーロッパ国際政治史』(有斐閣コンパクト)