宇宙人のliynだよ。
今回は辻邦夫の「西欧の光の下」を読んだよ。
空虚
秋にパリに着いたという季節のせいか、リュクサンブールの木立が落葉しはじめ、朝夕の冷えた町を霧が流れるようになると、ながいこと私をなやましていたこの町の空虚な印象が、まざまざとよみがえってくる。
秋になると、著者はパリの空虚さを思い出さずにいられないらしい。
ちょうどパリという町全体があき家か何かのようにひっそりと空虚で、魂のぬけさったあとの外観、白々とした形骸としか見えてこず......
パリが著者にとって異郷であるというだけのことでは、その奇妙な感覚を説明するには不足だった。
問題は単に感覚上のものではなく、もっと深い原因があるように思われた。
形式
ある女友達の家で、著者はある妙な体験をした。
十八世紀に私たちの祖先がスエーデンから買いもとめてきたんです。さやの裏側にひびが入っていますが......
ピアノの上にかけてあった古い剣について聞かれて、父と娘は全く同じ言葉を用いて客に説明した。
口を合わせたわけでもなく、そんなことがあり得るかと著者は訝った。
おそらくもはや何代もの間、生活のすべてにこうした儀式のような形式が定まっていて、ある一つの儀式めいたやりとりが終わると、同じようにして、何か別の、しかし前から定められていた形式に、おのずと従ってゆくのではあるまいか。
著者は空虚さの原因にフランス人の従っている生活上の形式を見た。
違和感
生活においても精神活動においてもフランス人のもつ形式優先、秩序への信頼は、予想以上のものだった。たしかにこれはみごとに洗練された、智恵ある形式にはちがいない。
洗練された智恵と秩序、それがフランス人の生活上の美徳だった。
しかし、以上の引用から窺われるように、著者はそこに何か不自然な感じを抱かずにはいられなかった。
文学の困難
日本を出るとき、すくなくとも私に課せられた文学の困難は、現実の方が私の想像による世界を追いこしてしまったという事実から生まれていた。かなりの努力にもかかわらず、文学が私に与えてくれるものは空虚であり、精神はただ認識という「力」にこそ拠りどころを求めたけれど、個々の形象に結びつく感覚からは疎遠になるばかりだった。
何となくフランス文学者らしい文章で、興味深いと僕は思った。
認識を「力」と考えるのは、ニーチェの影響だろうか。あるいは、知は力なりの伝統はフランシス・ベーコン以来、西洋では古くからある。
いずれにせよ、認識も単なる思弁や観念論に堕すれば頼りない。現実感覚が復権するのはそのような時だろう。
とはいえ、現実が全てとなれば、文学もありようがない。自らの精神世界を信頼できなければ人は何も書けやしない。
文学的形式
まして文学的形式を、自己の従う必然的制約であるとみなす現実的動機に達するまでには、すでにそれだけで一つの文学的課題であるほどの困難さが横たわっていた。
実に手ごたえのある文章で、僕は好きだ。
自己の動機からして必然的な文学的形式――文学者であれば考えない者はいないような問題だが、だからといって、この問題が彼らにとって真にクリティカルであるかどうかは怪しいものだ。
著者の自己批判の強さと現実感覚の共存に、僕は小林秀雄を思い出す。
地球には実にしっかりした人物もいたものだと、僕はいつも感心している。
近代日本
しかし私たちの築いた近代日本の底辺には、なんといっても西欧的な精神の原理が動いていたのだし、私たちを混乱させているのは、ひょっとしたら、そうした正統的な原理に立つ展望が失われているためかもしれず、そしてもしそうだとすれば、いまなおその原理で動く西欧社会にふれて、もっとも正統的な形で、じかに自分の感覚を通して......
近代日本について考える上で非常に参考になるので引用した。
著者は言うまでもなく日本人だが、西欧的な精神の原理を「正統的な原理」と言っていて興味深い。
これは、令和の日本人には分からないかもしれないが、明治から昭和頃の知識人がどれだけ西洋に影響されていたかは容易に計り知れない。
そうした原理が揺らいできたのが戦後のようだ。基本原理の動揺はもちろん日本の知識人層を悩ませた。
フランスという異郷に飛び込み、その「正統的な原理」を直に確かめようとしたことは誤りではなかったと、著者は回想している。
文明
私はそこにただ町の外観のみをみたのではなく、町を形成し、町を支えつづけている精神的な気品、高貴な秩序を目ざす意志、高いものへのぼろうとする人間の魂を、はっきりと見出したのである。
著者はついにパリの空虚を覆した。
自然の所与を精神に従え、それを人間的にこえようとする意欲があった。
前回の「シャルトル幻想」では、著者は「文明」という言葉と共に文章を書き起こしていた。
この時、著者はついにフランスの文明を見たのだ。文明とは、空間的に働きかける人間の意志と営みなのだろう。
光
ある意味で、その瞬間こそが、私にとって、おそらく西欧の光にふれた最初の機会だったかもしれない。
西欧文明が「光」と表現されていることに僕は注目する。
智恵や秩序の透徹なイメージが、「光」という表現を生んでいるのだろう。
お前が、どのような動機であれ、よそに、すでに出来あがったものを求めにいったのは、間違ったことだった。精神が、他の精神にふれうるのは、それが生みだしたものを通して、いかにそれが現実と闘い、そのなかから自らの糧を汲みだしたかに注意するときだけだ。
文学を模索していた著者に一つの答えが与えられた。
形式とは停滞でも下降でもなく、それらに抗う美しい人間の智恵だった。
そして、精神は縛られず、新しいものが生み出される土壌なのだ。
現在を生きる文明人の秘密がそこにあると言える。
最後まで読んでくれてありがとう。