History & Space for a Break

from my dear Andromeda

宇宙人が辻邦夫に西洋を学んでみた。

宇宙人のliynだよ。

 

僕は現在、将来的に地球人がケンタウルス座α星にまで進出した際の影響を調査する目的で、同星付近に停泊している......。

 

今回僕が取り上げたいのは、辻邦夫の『シャルトル幻想』だ。

 

目的は、小説家であり仏文学者の著者から西洋を学ぶことだ。近代の文学者や知識人の精神の根底にある西洋――僕が探求したいのはそれだ。

 

欠落

私は内陣の薄闇のなかを歩きながら、こうした空間をついに持つことのなかった私たちの文明の不幸について考えないわけにゆかなかった。たしかにここには単なる憩いがあるだけではなく、逆に、きびしい自己への拒否、ほとんど残忍とよんでもいいような意志の働きが感じられたからである。

 

パリにほど近いシャルトルの大聖堂の中で、著者はそう感じたが、大聖堂を持たないからと言って、日本の文明はなぜ不幸なのだろう。

 

令和の日本人には理解し辛いことだが、明治から昭和の日本の知識人は圧倒的に西洋の科学、文芸、哲学の影響下にあった。

 

近代知識人の自己否定と理想主義は凄まじく、彼らは孤独と情熱とにその身を引き裂かれていた。

 

一方で、日本の文明は彼らの新しい孤独と苦悩が結晶化したような聖域を持ってはいなかった。彼らの苦悩は決して聖化されはしなかった。

 

芥川龍之介は「河童」の中で新しい宗教を発明している。

 

近代知識人が日本の文明に何か欠落を感じていたとしても不思議ではないのだ。

 

西洋の「光」

もう一つの説明のヒントは、著者の見たパリの姿にある。

 

私はそこにただ町の外観のみをみたのではなく、町を形成し、町を支えつづけている精神的な気品、高貴な秩序を目ざす意志、高いものへのぼろうとする人間の魂を、はっきりと見出したのである。

 

これが、著者が初めてその目で見た西洋の「光」だった。

 

西洋の伝統は高い創造の精神を持っていた。自己否定と自己克己の不断の関係が西洋を停滞から高みへと救った。

 

先述のシャルトル大聖堂もまた、西洋の「光」の凝縮した一点だ。

 

あたかも磁場に一点の極が作用するように、このイール・ド・フランスの起伏する大地のただなかに、天をさして立つ教会堂の二つの尖塔は、西欧カトリック世界の極点として、たえざる崇高なものへの憧憬を象徴しているように見える。

 

これらには、西洋の創造性への著者の憧憬が窺われる。

 

形式

 

一方で、著者はある女友達の家で、こう感じたこともあった。

 

おそらくもはや何代もの間、生活のすべてにこうした儀式のような形式が定まっていて、ある一つの儀式めいたやりとりが終わると、同じようにして、何か別の、しかし前から定められていた形式に、おのずと従ってゆくのではあるまいか。

 

あるいは、

 

生活においても精神活動においてもフランス人のもつ形式優先、秩序への信頼は、予想以上のものだった。たしかにこれはみごとに洗練された、智恵ある形式にはちがいない。

 

フランス人の形式主義は、初め著者には不満だった。それを覆したのが、パリに見た西洋の「光」だった。

 

形式主義は決して停滞を意味してはいなかったし、そこには何か美的かつ崇高な人間精神の営みが表れていた。

 

西洋の精神文明が日本のそれより優れている証拠はないが、近代知識人は日本という現実世界に帰るべき場所を見出せなくなっていた。

 

文学

 

著者の文学体験もまた、彼の西洋観と無縁ではないだろう。

 

私はいまも小説を<感動の装置>と見なしているが、それは、小説がいわゆる「読むもの」ではなく、「一体化するもの」という思いがあるからなのだ。

 

あるいは、

 

日本を出るとき、すくなくとも私に課せられた文学の困難は、現実の方が私の想像による世界を追いこしてしまったという事実から生まれていた。かなりの努力にもかかわらず、文学が私に与えてくれるものは空虚であり、精神はただ認識という「力」にこそ拠りどころを求めたけれど、個々の形象に結びつく感覚からは疎遠になるばかりだった。

 

認識は「力」という考え方は、単なる思弁や観念論に堕しやすい。一方、現実認識の過度の強調は、文学者から創作的土壌を奪い去る。

 

まして文学的形式を、自己の従う必然的制約であるとみなす現実的動機に達するまでには、すでにそれだけで一つの文学的課題であるほどの困難さが横たわっていた。

 

自己の動機から必然的な文学的形式――当然のように言うが、誰しもがそれを現実に見出せるわけではない。

 

それは、非常に困難で孤独な営みだろうと思われる。

 

孤独

 

近代知識人の見た西洋はしばしば孤独の観念と結びついている。

 

著者はリルケに強い印象を抱いている。

 

1920年に、大戦後の不安と不毛から転々とイタリア、スイスを彷徨していたリルケが、ようやくパリに帰ってきて、リュクサンブール公園とカンパーニュ・プルミエール街とロダン美術館を見出して、落ち着きをとり戻し......

 

そして、著者はパリの街中で時折こう感じた。

 

ただリルケがパリで見た唯一のものといってもいい人間の孤独な、寂寥とした、時には狂気寸前にある状況と似たものを、ごくたまではあったが、かいま見たように思う。

 

著者がパリに着いたのは秋のことだった。だから、秋になると、著者はパリの空虚さを思い出さずにいられない。

 

秋にパリに着いたという季節のせいか、リュクサンブールの木立が落葉しはじめ、朝夕の冷えた町を霧が流れるようになると、ながいこと私をなやましていたこの町の空虚な印象が、まざまざとよみがえってくる......ちょうどパリという町全体があき家か何かのようにひっそりと空虚で、魂のぬけさったあとの外観、白々とした形骸としか見えてこず......

 

他に、こんな文章もある。

 

インスブルックからザルツブルグまでの山峡の雪は深く、峰々は雲に閉ざされていた。私はキャッツビュールへスキーにゆくというアメリカ人一家と乗りあわせた。......その子供たち三人が、キッツビュールの駅のスキー客の間にまじって見えなくなるのを見ながら、チロルの冬旅がいっそう孤独に深まるのを、私は感じないわけにゆかなかった。

 

西洋的な原理

 

最後に、近代知識人の間に西洋がどのように作用していたか、著者の実感が窺われる文章を引用しておこう。

 

しかし私たちの築いた近代日本の底辺には、なんといっても西欧的な精神の原理が動いていたのだし、私たちを混乱させているのは、ひょっとしたら、そうした正統的な原理に立つ展望が失われているためかもしれず、そしてもしそうだとすれば、いまなおその原理で動く西欧社会にふれて、もっとも正統的な形で、じかに自分の感覚を通して......

 

最後まで読んでくれてありがとう。