宇宙人のliynだよ。
今回は辻邦夫の「シャルトル幻想」を読んだよ。
文明という言葉
著者はこのエッセイを「文明」という言葉で始めている。
著者も指摘しているが、文明という言葉を十分に説明し尽くすことは難しい。
生活、文化、それを囲う領域的な相互関係......
僕の考えた文明の語義説明はこういったものだが、一定の文化の質、例えば、社会的結合、法、宗教、学問、技術なども、文明という言葉は含意している。
著者はフランスの文明を、以下のような光景に感じたらしい。
それは、むしろ、広々とした大地に点在する赤屋根をならべた村々、帯のように走る道路、古い橋や街道の十字架、高く空に立つ教会の鐘楼などが、互いによびあい、結びあって、そこに眼に見えない人間的秩序をつくっているという、疑い得ない事実から生まれているように思われる。
実に、興味深い視点だと思った。
西洋のイメージ
こんな一文に、著者の西洋観を読み取ることができる。
……地上に実現されたカトリック的世界の壮麗な秩序は、その裏面に、いかに暗鬱な肉の葛藤をかくしていようとも、やはりそこに、人間精神が空間のすみずみまでも耕したみごとな実例を見ないわけにはゆかない。
著者が最初に想起する文明は西洋のことなのだろうね。
著者が「地上のすみずみまでも」ではなく、「空間のすみずみまでも」と言っているところは僕の気に入った。
人間の存在する空間は精神世界と繋がっている。著者の表現は、その繋がりをも含意することができていると思う。
すると、文明とは精神と空間的造形とも言えるだろうか。少なくとも、人間の外部への働きかけが主要要素の一つであることは間違いない。
シャルトル大聖堂
著者はシャルトル大聖堂に西洋的空間表現の結晶を見ている。
あたかも磁場に一点の極が作用するように、このイール・ド・フランスの起伏する大地のただなかに、天をさして立つ教会堂の二つの尖塔は、西欧カトリック世界の極点として、たえざる崇高なものへの憧憬を象徴しているように見える。
この文章も、非常に僕の気に入った。
シャルトルの二つの尖塔が、宗教的憧憬の世界への接点となっていることを著者は感じているのだろうね。
ここは、西洋人の魂が憩い、誇り、そして祈る場所なのだ。
日本という文明
私は内陣の薄闇のなかを歩きながら、こうした空間をついに持つことのなかった私たちの文明の不幸について考えないわけにゆかなかった。たしかにここには単なる憩いがあるだけではなく、逆に、きびしい自己への拒否、ほとんど残忍とよんでもいいような意志の働きが感じられたからである。
なぜ、大聖堂を持たないことが日本という文明にとって不幸なのか。
令和の日本人には分からないかもしれないが、明治から昭和の知識人は圧倒的に西洋の影響下にあったんだ。
知識人の自己否定と理想主義の激しさには想像を絶したものがあった。しかし、日本には彼らの精神に応えるべき帰所がなかった。
僕は芥川龍之介が「河童」の中で新しい宗教を登場させていることを思い出す。
近代的知識人は日本の文明の中に何か欠落を感じていたらしいと言って、間違いではないと僕は思う。
ステンドグラス
著者はシャルトル大聖堂のステンドグラスを絶賛する。
たしかにこれらの諸教会堂の彩色玻璃窓もそれぞれに別個の味わいをもってはいる。しかしシャルトルのそれのような冥暗な情念の底にしのびこむ色調の深さは、おそらく他に見出すことは不可能にちがいない。
僕は、「冥暗な情念の底にしのびこむ色調の深さ」という表現が好きだ。色調がそのまま精神の深度に触れることはあり得ることと思う。
しかしヴィトローが他の芸術作品と異なっている点は、刻々に変わる日の光に、その効果のすべてを依存しているということだ。同じシャルトルの耽美的なガラスの色彩も、朝と昼と夕方ではかなり異なる効果を与えるし……
僕が地球に来て驚いたのは、一日として同じ空の日はないということだ。空の色、大気の感じ、遠さ、音、その全てが日毎に別のニュアンスを持っている。
ということは、大聖堂のステンドグラスは、その日その時ごとに全く別個のものに見えるに違いない。
それは、非常に素晴らしく、明確な昼と夜、天気、四季のある地球でなければ生まれ得なかった現象だ。
ポプラという木
最後に、著者がフランスの景観としてポプラの並木を挙げているので、ポプラがどんな木なのか調べてみた。
僕は地球の動植物にも興味があるから、ここに書き記しておく。
ポプラはヤナギ科ヤマナラシ属の樹木の総称らしい。
代表的なものはセイヨウハコヤナギだ。
涼しい気候を好み、日本では特に北海道の街路樹としてメジャーだ。成長が早い反面寿命が短く、風に吹かれると葉がサラサラとした音を立てる。
枝は横に広がらず、縦長の樹形となる。
最後まで読んでくれてありがとう。