宇宙人のliynだよ。
僕が今回読んだのは小林秀雄の「徒然草」だ。
数ページの短い批評文で、吉田兼好の『徒然草』について書かれている。
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より正確には、兼好の批評精神についてと言うべきかもしれない。
小林の言う兼好の批評精神とは「徒然なる」心持ちそれ自体だと言える。
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小林が名作として引用している部分を以下に紹介する。
因幡の国に、何の入道とかいふ者の娘容美しと聞きて、人数多言ひわたりけれども、この娘、唯栗を食ひて、更に米の類を食はざりければ、斯る異様の者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり。
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親の苦労と常識的決断が窺われる。
この怪しげな娘をだらしないだけの女と考えるか、そこに何か異様な艶めかしさを感じ取るかは読者に任されている。
もっとも、娘は男になどまるで興味がないのかもしれない。
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徒然なる儘に、日ぐらし、硯に向ひて、心に映り行くよしなしごとを、そこはかと無く書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ。
徒然なるが故に侘しいというのであれば分かるが、「物狂ほし」とは中々強烈な表現だと言えよう。
小林は、そこに批評家としての兼好の冴えた眼差しを見ている。
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小林は、兼好の「徒然」という言葉に、何か辛辣な意味を読んでいる。
この言葉は兼好の真意を隠しやすいものであり、よく読まなければその背後にある批評家の眼差しを汲み取ることはできない。
兼好は決して孤独を嘆いているのではなかった。
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むしろ、孤独は批評家にとってこの上ない環境を意味していた。
徒然わぶる人は如何なる心ならむ。紛るゝ方無く、唯独り在るのみこそよけれ。
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小林は「怪しうこそ物狂ほしけれ」という言葉を、「いよいよ物が見え過ぎ、物が解り過ぎる辛さ」だと言っている。
小林が共感している「物が解り過ぎる辛さ」とは一体何であろう。
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それはおそらく、何に頼るでもなく自分自身の心を用いる辛さであった。
兼好曰く、「万事頼むべからず」なのだ。
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小林は現代人的な批評家を批判しているが、批評家の批評眼はその頭脳、精神、感覚、経験の統合・昇華であるべきだ。
一方で、現代には借り物の頭脳でものを言う批評家が氾濫している――そう小林は感じていただろう。
最後まで読んでくれてありがとう。