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from my dear Andromeda

芥川龍之介「父」 あらすじ/ノート

芥川龍之介(1892~1927年)の「父」は、1916年5月に発表されました。

同年の2月には、「鼻」が発表されています。「鼻」は、師である夏目漱石の激賞を受け、「芋粥」(9月)と「手巾(ハンケチ)」(10月)の二作で文壇デヴューを果たすきっかけとなりました。

今回の「父」は、芥川が中学四年生であった時の、能勢という友人のエピソードを回想したものです。

同作は翌1917年5月に刊行された単行本『羅生門』にも収録され、初期の良作の一つに数えることができます。

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

 

(1)あらすじ

これは、自分が中学の四年だった時の話である。

その年の秋、日光から足尾にかけて、三泊の修学旅行があった。学校の刷り物によれば、午前六時三十分上野停車場前集合とある。当日、私はろくに朝飯も食わずに家を飛び出した。

自分は上野行きに乗り、込み合っている中、やっと吊革を掴むと、後ろから誰かに肩を叩かれた。振り向くと、能勢五十雄(のせ いそお)であった。

能勢は、自分と同じ小学校から、同じ中学校へ入った男である。ちょっとした事には器用な性質(たち)で、身振りとか、顔つきとかで、人を笑わすのには、独特の妙がある。

他愛もなく話している内に、自分たちは停車場前へ来た。クラスの連中はまだ二、三人しか見えない。自分たちは待合室のベンチに腰をかけると、いつもの通り、勢いよく喋り出した。

その話には、旅行の想像、生徒同士の品質、教員の悪評などが盛んに出た。停車場にいる職人やらお上さんやらを、能勢が批評し始めたのは、この時である。

能勢の形容は、一番辛辣で、一番諧謔に富んでいた。と、自分たちの一人は、ある妙な男を発見すると、能勢の手をひっぱって、その評をせがんだ。

自分は横顔だけ見て、それが能勢の父親だということを知った。しかし、能勢は何でもないように、「あいつはロンドン乞食だ」と評した。自分は、その時の能勢の顔を見るだけの勇気を欠いていた。

後でそれとなく聞くと、能勢の父は息子が修学旅行へ行く所を、出勤の道すがらに見ようと思って、わざわざ停車場へ来たのだそうである。

能勢は、中学を卒業すると間もなく、肺結核にかかって、亡くなった。

その追悼式を、中学の図書室で挙げた時、制帽をかぶった彼の写真の前で、弔辞を読んだのは、自分である。「君、父母に孝に」。自分はその弔辞の中に、こういう句を入れた。

 

(2)ノートA(事実関係)

1916年2月、芥川が第四次『新思潮』誌上に発表した「鼻」は、師の夏目漱石の激賞を受けました。

それをきっかけとして、『新小説』に「芋粥」(9月)が、新人作家の登竜門『中央公論』に「手巾」(10月)が発表されます。

これら二作は、芥川の作品としては、回覧雑誌や同人雑誌ではなく、初めて公の一流雑誌に掲載されたものです。ここに、芥川の文壇デビューが達成されることになりました。

 

芥川龍之介「鼻」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「芋粥」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「手巾」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

今回の「父」は、その間の5月、『新思潮』誌上で発表されたものです。この作品は翌1917年5月、芥川の最初の単行本『羅生門』にも収録されています。

以下の引用からは、単行本刊行頃の作者の自信が窺われます。

自分は近来ますます自分らしい道を、自分らしく歩くことによつてのみ、多少なりとも成長し得る事を感じてゐる。従つて、屡々自分の頂戴する新理智派と云ひ、新技巧派と云ふ名称の如きは、何れも自分にとつては寧ろ迷惑な貼札に過ぎない。(「『羅生門』の後に/1917年)

一方で、芥川は既存の自然主義文壇の無理解と批判にも晒されていました。それに対する反論としては、1917年1月の「MENSURA ZOILI(メンスラ ゾイリ)」という作品があります。

しかし、文壇からの批判に晒されたことは、以下のように、芥川を弱気にもさせたようです(松岡譲宛て書簡/1917年10月)。

それから今後新聞雑誌の文芸批評は一切縁を切つてよまない事にするつもりだ あれを読んで幾分でも影響をうけないには余りに僕は弱すぎるから、さうして少しづつでもしつかり進むつもりだ

 

芥川龍之介「MENSURA ZOILI」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

(3)ノートB(個人的解釈)

ここからは、作品の個人的な解釈をごく簡単に記します(直観的に読んでいるだけなので、資料的な裏付けはありません)。

全集の脚注によると、今回の作品の初出時には、能勢の父が停車場にいた理由を説明し終えた所で、以下の文章が加えられていたそうです。

自分はその時うけた異常な感動を、今でもはつきり覚えてゐる。倫理の講義が教へる在来の道徳律は、或は自分に命じて、能勢のこの行為を不孝の名の下に、否定させやうとするかも知れない。しかしこの感動だけは常に自分を促して、飽くまでも能勢の為に、一切の非難を辨護させようとするのである。

ここで私が思い出したのは、『侏儒の言葉』(1923~25年)の中の、「修身」と題された以下の言葉です。

良心は我我の口髭のように年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得るためにも若干の訓練を要するのである。

あるいは、芥川は「良心は厳粛なる趣味である」とも言っています。

芥川の言う「良心」には、倫理的なものだけでなく、芸術的な含みもありそうに思われますが、ここで重要なのは、それが社会規範的なものではなく、あくまで個人的な感覚に基づいたものだということです。

これに関して、芥川の「梅花に対する感情」(1924年)の中に、以下の言葉を発見することができます。

予等は芸術の士なるが故に、如実に万象を観ざる可らず。少くとも万人の眼光を借らず、予等の眼光を以て見ざる可らず。古来偉大なる芸術の士は皆この独自の眼光を有し、おのずから独自の表現を成せり。

私は以前から、優れた芸術家や学者の、その優れたる所以(ゆえん)は、彼らの感覚的世界(内的な宇宙)にあると考えています。

最も精神的な滋養に富んだ作品や学説は、全て、彼らの感覚的世界に基づいた直観に拠っているものと、私は思います。もっとも、詩を除けば、その外観の多くは客観的な論証の形を取るものではありますが。

この点、芥川も「松浦一氏の「文学の本質」に就いて」の中で、以下のように言っています。なお、これは当時、東京帝国大学の文学部講師であった松浦氏の新著の印象を書き綴ったものです(1916年1月)。

先生は此信念を直下に他に証得せしめんが為に、屡々(しばしば)之を客観的論証の方便門より搬出した。自家の信念を他に移植せんとする者は、嫌でも之を分析と総合とに求める外は無い。先生の新著の皮と肉とを成す物は、実に此論理的正確を期せんとする論議である。

 

芥川龍之介「松浦一氏の「文学の本質」に就いて」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

ここで、ほとんど同じ時期に発表されている「猿」(1916年9月)と、今回の作品との間にある類似性を指摘しておきたいと思います。

この作品では、ある軍艦内で盗難事件が起こり、姿を隠した容疑者、信号兵の奈良島という男を捜索する場面が描かれています。

その時、候補生の主人公は友人と一緒に、以前、軍艦内に逃げ出した猿を捜索したことを思い出します。

しかし、石炭庫の入り口で見つけた、奈良島の追い詰められた、「恐ろしい」としか形容できない表情に、主人公は衝撃を受けました。

そして、彼は奈良島を猿呼ばわりしていたことを恥じたのです。

恐らく、私たちの倫理や「良心」とは、一つには、このような瞬間に、自分自身で発見した他者への理解(同情心)に基づいたものなのでしょう。

以上のように、同時期の二作には同じテーマが見られます。このことは、作者を理解する上で、非常に興味深い偶然と言えるのではないでしょうか。

 

芥川龍之介「猿」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

(4)参考図書

芥川龍之介「父」『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

関口安義『芥川龍之介 闘いの生涯』(毎日新聞社)

 

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芥川龍之介「手巾」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「猿」 あらすじ/ノート

芥川龍之介(1892~1927年)の「猿」は、1916年9月に発表されました。

同日には、芥川の「芋粥」が公の雑誌『新小説』誌上に発表されています(今回の作品は、同人雑誌の第四次『新思潮』に掲載)。

同作は芥川の最初の単行本『羅生門』(1917年5月)にも収録されており、初期の良作の一つに数えることができます。

内容的には、軍艦内の盗品事件をきっかけに、私たちがいかに自然な同情心を失いがちであるかという問題が提起されていると言えます。

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

 

(1)あらすじ

私が、遠洋航海を済ませて、やっと候補生の年季も終わろうとした時です。

私の乗っていた軍艦が横須賀へ入港してから、三日目の午後、総員集合を命じるラッパが、突然鳴りました。当然、ただごとではありません。

副長は、軍艦内で盗難の事例が二、三あるらしいことを告げました。そこで、臨時に総員の身体検査と、所持品の検査が行われることになったのです。

私は中下甲板の検査をする役に当たって、兵員の衣嚢(いのう)やら手箱やらを検査して歩きましたが、その内に、私の友人の牧田という男が、奈良島という信号兵の持ち物の中に、例の盗品を発見しました。

すると、直ちに信号兵集合の号令が出ましたが、奈良島の姿がありません。軍艦内の盗難事件では、よくあることなのだそうです。というのも、もちろん、先に容疑者が自殺してしまうからです。

すぐに、副長の命令で、艦内の捜索が始まりました。そこで、一種愉快な興奮に駆られたのは、私一人ではないでしょう。私と牧田などは、いつか艦内で猿を捕まえた時のことを、冗談で言い合ったりしたのです。

私は一番先に、薄暗い下甲板へ下りました。その薄暗い中を、石炭庫の方へ歩いていった時のことです。私はもう少しで、声を出して、叫びそうになりました。その入口に、人間の上半身が出ていたからです。

私は奈良島に飛び掛かって、両手で肩をしっかり押さえました。その時、振り返って私を見上げた、彼の「恐ろしい」顔は、私の心の中にある何物かを、衝撃で叩き壊してしまいました。

その後、私は他の候補生と欄干に寄りかかって、日の暮れかかる港を、見るともなく見ていました。すると、例の牧田が私の隣へ来て、「猿を生け捕ったのは、大手柄だったな」と冷やかして言いました。

しかし、「奈良島は人間だ。猿じゃない」。私はつっけんどんに答えました。

思えば、奈良島の姿が見えないと狼狽する副長を軽蔑し、あの信号兵を猿扱いしていた、私たちの馬鹿さ加減は――私たちが猿扱いする中にも、副長だけは、同じ人間らしい同情を、あの信号兵のために持っていたのです。

 

(2)ノートA(事実関係)

1916年2月、第四次『新思潮』誌上に「鼻」が発表されました。

この作品は、師の夏目漱石の激賞を受け、そのことが、「芋粥」(9月)と「手巾(ハンケチ)」(10月)発表の機縁となりました。

この二作で初めて、芥川は回覧雑誌や同人雑誌ではなく、一流雑誌に自身の作品を掲載することができました。ここに、芥川の文壇デヴューが達成されます。

 

芥川龍之介「鼻」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「芋粥」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「手巾」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

今回の「猿」は、「芋粥」と同じ1916年9月に発表された作品です。

この作品は翌1917年5月、初の単行本『羅生門』にも収録されています。この頃の芥川を捉えた文章としては、江口渙の以下の言葉があります。

数多い新進作家の中で芥川龍之介君位鮮やかに頭角を露はした者はない(「芥川君の作品」/1917年)

また、芥川自身も新進作家としての自信を覗かせており、この頃、以下のような言葉を残しています。

自分は近来ますます自分らしい道を、自分らしく歩くことによつてのみ、多少なりとも成長し得る事を感じてゐる。従つて、屡々自分の頂戴する新理智派と云ひ、新技巧派と云ふ名称の如きは、何れも自分にとつては寧ろ迷惑な貼札に過ぎない。(「『羅生門』の後に」/1917年)

 

(3)ノートB(個人的解釈)

ここからは、私が今回の作品を読んで思い出したものの中から、作品の補足となりそうなものを選んで、簡単に記します(ただし、個人的な連想に止まり、学術的なものではありません)。

最初に触れたいのは、芥川の「父」(1916年5月)という作品です。

この作品によれば、芥川が中学四年の時、日光から足尾にかけての修学旅行があったそうです。

作品の舞台は、出発前の集合場所である停車場で、そこに学友が集って、周囲に見える人間たちを、好き放題に品質していきます。

その中心にいたのは、一番諧謔に富んだ能勢という男の子で、彼は学友たちの求めに応じて、ある男に「ロンドン乞食」というあだ名を与えました。

しかし、芥川だけは、その男が能勢の父親だと気が付いていました。彼の父は、息子の出発を見送るために、そこにいたのです。

皆が一時にふき出したのは、いうまでもない。中にはわざわざ反り身になって、懐中時計を出しながら、能勢の父親の姿を真似て見る者さえある。自分は、思わず下を向いた。その時の能勢の顔を見るだけの勇気が、自分には欠けていたからである。

今回の「猿」というお話は、信号兵の奈良島が見せた、「恐ろしい」としか形容できないような、どう同情していいか分からないような表情に衝撃を受けて、彼を猿呼ばわりしていたことを恥じる、というものです。

人間というものは、本来的には、どんな相手に対してでも同情心を持つことができるのかもしれません。しかし、一方では、私たちは嫌悪や諧謔の上に他人を転がしておいて、平気でいるものです。

それが誤りであったと気が付く瞬間は、誰にでも経験があるでしょう。芥川の繊細な心は、そのような瞬間を人一倍苦しく感じていたのだと思います。

 

芥川龍之介「父」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

次に、遺稿「或阿呆の一生」の中から、「結婚」と題された以下の文章をご紹介させて頂きます。

彼は結婚した翌日に「来匆々(そうそう)無駄費いをしては困る」と彼の妻に小言を言った。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言え」と云う小言だった。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詫びを言っていた。彼の為に買って来た黄水仙の鉢を前にしたまま。……

妻の純真や善意を守れなかったことを悔いているのでしょうか。半ば自責とも言える優しさが、ここに表れているように思われます。

最後に取り上げるのは、今回の作品と同じ日に発表された「芋粥」です。

この作品の主人公の、名前の伝わらない五位の男は、意気地なしで臆病で、見た目や着る物もだらしなく、上下の人間に侮られていました。

しかし、ある無位の青年は、この四十過ぎの五位がいじらしく、「いけぬのう、お身たちは」と言ったのを聞いた時、そこに「世間の迫害にべそを掻いた、『人間』」を発見したと、作者は書いています。

その後、彼には、「五位の事を考える度に、世の中のすべてが、急に、本来の下等さを露すように思われ」るようになったそうです。

 

芥川龍之介「芋粥」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

皆誰でも守られなければならない、その簡単な事実を経験から学ぶまでに、私たちはたくさん傷つき、傷つけなければなりません。

ここで、結びとして、芥川の箴言集『侏儒の言葉』(1923~25年)の中の、以下の言葉を引用しておきたいと思います。

すなわち、「我我の悲劇は年少のため、あるいは訓練の足りないため、まだ良心を捉え得ぬ前に、破廉恥漢の非難を受けることである」(「修身」)。……

 

(4)参考図書

芥川龍之介「猿」『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

 

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芥川龍之介「芋粥」 あらすじ/ノート

芥川龍之介(1892~1927年)の「芋粥」は、1916年9月に発表されました。

この作品は、鈴木三重吉の『新小説』誌上に掲載されました。回覧雑誌や同人雑誌ではない一流雑誌に載った作品としては、初めてのものです。

掲載のきっかけは、同年2月の第四次『新思潮』に載った「鼻」が、師である夏目漱石に激賞されたことでした。

これによって、芥川は「芋粥」と「手巾(ハンケチ)」を発表する機会を得、文壇デビューを果たすことができました。

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

(1)あらすじ

平安のいつ頃だったろうか、その頃、摂政藤原基経に仕えている侍の中に、名前の伝わらない五位の男がいた。

五位は風采の上がらない四十過ぎの男で、見た目も着る物もだらしなく、侍所にいる者たちは当然、上役から下役まで、この男を侮っている。

ところが、五位はたとえ、どんな理不尽な侮りを受けたとしても、決して腹を立てたことがないほどに、意気地のない、臆病な人間であった。

そんな五位にも、以前より持っている希望が一つだけあった。いつか、芋粥を飽きるほど飲んでみたいという欲望である。

しかし、この五位の小さな希望は、案外容易に達せられることになった。

ある年の正月二日、基経の邸で行われた「臨時の客」で、五位は少しの芋粥を口にすることができた。その時、五位は気が付くと、「いつになれば、芋粥を飽きるほど飲めるだろうか」と呟いていた。

これを笑ったのが、武人然とした、大柄の侍・藤原利仁である。利仁は、もし望むならば、自分が芋粥をご馳走しようではないか、と申し出た。五位はしばらくの間狼狽したが、最後には、その申し出を受け入れたのであった。

その四、五日後、五位は利仁と馬を並べて街道を進んでいた。二人は粟田口を過ぎて、山科を行き、大津の三井寺までも過ぎていった。そこで、五位は初めて、利仁が彼を、敦賀の邸まで連れていこうとしていることを知った。

道中、利仁は一匹の狐を捕まえて、邸から家来を遣わすよう命じた。すると、翌朝本当に、家来たちは高島辺りまで二人を迎えに来るのであった。

その夜、暖かい寝床の中でまじまじしていた五位は、どうしてか、明日芋粥を食うということが嫌なような気がしていた。

翌朝、五位の前には、芋粥が一杯に入った提(ひさげ)が並べられていた。食べる前から満腹を感じていた五位は、少し食べると、しどろもどろになって、もう十分だと言って逃れようとした。

五位を救ったのは、あの、昨日の狐であった。芋粥を馳走に預かりにやって来たらしい狐に人々の注意が移ると、五位はやっと解放された。五位は安心と共に、満面の汗が乾いていくのを感じた。

冷たい風が五位の肌を撫でた。すると、五位は慌てて、鼻を押さえると同時に、提に向かって、大きなくしゃみをした。

 

(2)ノートA(事実関係)

少し遡って、1915年11月、東京帝国大学文学部英文科に在学中の芥川は、同文学部の『帝国文学』誌上に「羅生門」を発表しました。

しかし、作者の自信に反して、「羅生門」は発表当時、ほとんど反響を得ることができませんでした。

芥川の転機となったのは、翌1916年2月、第四次『新思潮』に発表した「鼻」が、師の夏目漱石の激賞を受けたことでした。

 

芥川龍之介「羅生門」 あらすじ/ノート - History for a Break

芥川龍之介「鼻」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

これをきっかけとして、芥川は鈴木三重吉の『新小説』と、新人作家の登竜門『中央公論』誌上に、それぞれ、「芋粥」(9月)と「手巾」(10月)を発表する機会を得ることができました。

芥川が文壇デビューを果たしたのは、これらの二作によってでした。この頃の芥川の言葉としては、以下の書簡が残されています。

この頃僕も文壇へ入籍届だけは出せました まだ海のものとも山のものとも自分ながらわかりません。(原善一郎宛て書簡/1916年10月)

 

芥川龍之介「手巾」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

今回の「芋粥」は、回覧雑誌や同人雑誌ではなく、初めて『新小説』という一流雑誌に掲載されたものでした。

作品は師の夏目漱石に概ね好意的に評価され、芥川はまず安心できました。

なお、この作品の典拠は、主に『今昔物語集』と『宇治拾遺物語』です。以下の引用は「鼻」発表時に併せて掲載されたものですが、古典に材を取ることへの、作者の立場をよく教えてくれます。

僕はこれからも今月と同じやうな材料を使つて創作するつもりでゐる。あれを単なる歴史小説の仲間入をさせられてはたまらない。(「編輯後に」/1916年)

なお、一般的に、芥川の文壇デヴューは華々しく、颯爽としたものであったとイメージされることが多いです。

例えば、『東京日日新聞』に載った、江口渙(かん)の「芥川君の作品」には、「数多い新進作家の中で芥川龍之介君位鮮やかに頭角を露はした者はない」の一文が見えます(1917年)。

その一方で、芥川は「手巾」(1916年10月)以降、既存の自然主義文壇の無理解と批判にも晒されることになりました。

それに対する反論として書かれたのが、翌1917年1月の「MENSURA ZOILI(メンスラ ゾイリ)」でした。

この作品では、作者は他国の絵や小説の価値を数値で表すゾイリア国の価値測定器の馬鹿々々しさを通して、既存の文壇を揶揄しています。

 

芥川龍之介「MENSURA ZOILI」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

(3)ノートB(個人的解釈)

ここからは、作品の個人的な解釈をごく簡単に記します(直観的に読んでいるだけなので、資料的な裏付けはありません)。

この作品において、読者が解釈上疑問に思うのは、五位はなぜ最後になって、芋粥を食べることが嫌になったのか、ということだと思います。

これに関して、最も参考になるのは以下の箇所ではないかと、私は考えます。

五位は、芋粥を飲んでいる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返った。それは、多くの侍たちに愚弄されている彼である。(…)しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云う欲望を、唯一人大事に守っていた、幸福な彼である。

同じ箇所には、「憐む可き、孤独な彼」という言葉も見られます。すると、五位の心理を理解するためには、彼が四十過ぎまで守ってきた、その「孤独」の形について考えてみる必要がありそうです。

さて、冒頭部分で、いくら侮られても腹を立てない五位を、作者は意気地なしで臆病と言っていますが、これは男らしさの欠如であると言っていいでしょう。

一方で、たくさんの家来を使い、五位に芋粥を食べさせてやる利仁は、男らしさを体現したかのような人物であると言えます。

その点に関してですが、敦賀へ向かう道中、狐さえも使役する利仁の男らしさに圧倒されている五位に対して、作者は以下の説明を加えています。

(五位は)唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くようになった事を、心強く感じるだけである。

作者はこれを、よくある阿諛の形と言っていますが、要するに、五位は利仁に影響されて、一時的に男らしさの方へ引っ張られていたのだと言えるでしょう。

しかし、五位はその勢いで芋粥をかき込むのではなく、それを辞退しました。五位は恐らく、ここで、男らしさの方へ一歩踏み出すための、ある種の儀式を直前で拒否しているのです。

その理由は、もちろん一つには、五位が意気地なしで臆病だったから、と考えられるでしょう。しかし、私は更なる説明として、それは、彼があまりにも「孤独」に慣れていたためだ、という解釈を挙げてみたいと思います。

孤独は必ずしも精神力の不足を意味するものではないと、私は考えます。ここで、私の言う精神力というのは、単純な心的なエネルギーのことです。

この作品で、五位の精神力の源を成すものとされているのが、芋粥を飽きるほど飲んでみたいという、彼の欲望でした。

人に侮られ、小さな願望だけを希望としている――そう言うと、五位はどこまでも弱い人間に思われますが、その「孤独」の状態は、恐らく、五位にとってはそう低い状態ではなかったと、私は思います。

もちろん、この作品は、一方では、新しい一歩を踏み出すことのできなかった、意気地なしで臆病な五位を描いたものと言えるでしょう。

しかし、他方では、芋粥と結びついた「孤独」という条件の下、五位の生活は十分に成り立っているのだから、そのような通過儀礼めいたことは、別に必要ではなかったとも考えられます。

作者もまた、以前の五位に対して、「芋粥に飽きたいと云う欲望を、唯一人大事に守っていた、幸福な彼」という説明を与えています。

私たちの生活は、外面的な部分だけでなく、心的な部分でも心地よく整っていなければ、安心や幸福を得ることができません。

五位の心的な生活、すなわち彼の「孤独」は、非常に微妙な形で、ある安定を保っていたに違いなく、それが決して低い状態でないとすれば、彼が芋粥を拒んだことに対しても、読者は一定の理解を得ることができるのではないでしょうか。

 

(4)参考図書

芥川龍之介「芋粥」『羅生門・鼻』(新潮文庫)

芥川龍之介「編輯後に」『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波新書)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

 

(5)関連記事

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芥川龍之介「鼻」 あらすじ/ノート - History for a Break

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芥川龍之介「松浦一氏の「文学の本質」に就いて」 あらすじ/ノート

1916年1月、芥川龍之介(1892~1927年)は『読売新聞』上に、「松浦一氏の「文学の本質」に就いて」を発表しました。

発表の時期としては、1915年11月の「羅生門」よりは新しいですが、「鼻」が翌1916年2月の作品なので、その少し前に発表されたものと言えます。

松浦一(はじめ)氏というのは、当時芥川が在学中であった東京帝国大学文学部の講師で、仏教信仰を基礎とした文学論で知られています。

全集の中でも埋もれていそうな同作を、私が今回取り上げたのは、作者を理解する上で、作中の以下の言葉が、かえって新しく感じられたからです。

(松浦氏の)旧日本に対する追慕の情は人類の将来に幸福を齎す可き何物かゞ其文明の中に潜んでゐる事を感得するからに外ならない。先生の前には恐らく限り無い未来が、希望と歓喜とに充ちて空の様に拡がってゐる事であらう。自分はさう信じ、且つさう祈つて此稿の筆を擱(おこ)うと思う。

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

 

(1)あらすじ

松浦先生の「文学の本質」(1915年)は、先生が最近一年間の講義に、若干の補正を加えて出版したものである。当時、自分はこの講義の怠惰なる聴講生の一人であった。

先生の新著は、その骨子において、先生の信仰の表白である。

先生によれば、文学の本質は「死すべき人間」の肉眼を以って観取され得るものではなく、利害と因襲とを離れた心眼を以って、捕捉すべきものである。

すなわち、「一輪の野菊の花の奥に神を見るが如く」、先入見を一切廃して、初めて心奥に浮かび上がる超越的なあるものである。

これを把握する為には、知的理解を投げうって悟入を求めるより他になく、また直観に赴くより他にない。先生のこの信仰は、自分には最も興味のあるものである。

ここで、自分は先生の新著に見られる、ある特色を挙げておきたい。すなわち、古い日本に対する先生の思慕がそれである。

先生はその信念の理想として、その眼を古い日本へと向けた。しかし、自分は先生にとって、古い日本が単なる趣味上の隠遁所でないことを信じている。

先生の古い日本に対する追慕の情は、そこに、人類の将来に幸福をもたらすべき何ものかが潜んでいることを感得しているからなのである。

先生の眼の前には、希望と歓喜とに充ちた限りない未来が、空のように広がっていることであろうと、自分はそう信じている。

 

(2)ノート

ここからは、作品の補足として、若干の個人的解釈を記します(必ずしも、資料的な裏付けがあるわけではありません)。

すでに述べた通り、私がこの作品に注目したのは、先の引用部分が、作者を理解する上で新しい観点を与えてくれるもののように感じられたからです。

先生が古い時代の日本を追慕するのは、そこに見つかるものが、私たちの将来をより希望と歓喜に満ちたものにしてくれると直感しているからだ――そう信じたいと、芥川は言っています。

私は今まで、芥川の主な関心の中に、「人類の将来に幸福を齎す可き何物か」があるとは、はっきりとは思っていませんでした。そういう意味で、作中の言葉は私には注目すべきものに思えたのです。

芥川が松浦氏の関心を、単なる懐古趣味と捉えなかったのは、芥川が古い時代の作品を多く残しているのにも関わらず、決して古い時代を、ただ古いという理由だけでよしとしているわけでもないからかもしれません。

序につけ加えて置くが、そう云う次第だから僕は昔の事を小説に書いても、その昔なるものに大して憧憬は持っていない。僕は平安朝に生まれるよりも、江戸時代に生まれるよりも、遥に今日のこの日本に生れた事を難有く思っている。

以上の引用は、芥川の「昔」(1918年)によるものです。芥川が歴史に対して、むしろドライであることがはっきりと分かります。

それでも、芥川が歴史に材を取って作品を書くのは、同じ作品によれば、以下のような製作上の理由からだったようです。

今僕が或テエマを捉えてそれを小説に書くとする。そうしてそのテエマを芸術的に最も力強く表現する為には、或異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なだけそれだけ、今日この日本に起った事としては書きこなし悪い(…)

すなわち、芥川が歴史に材を取るのは、以上の理由で都合がよかったからに過ぎないということになるでしょう。

ここで、今回の作品の理解とも関係するので、芥川の芸術観について簡単に触れておきたいと思います。

芥川は「芸術その他」(1919年)の中で、「作品の内容とは、必然に形式と一つになった内容だ」ということを言っています。

内容とか形式とか、何のことだか、これだけでは全く分かりませんが、少し先を文脈を無視して抜き出したのが、以下の文章です。

(イプセンの「幽霊」の)あの「太陽が欲しい」と云う荘厳な言葉の内容は、唯「太陽が欲しい」と云う形式より他に現わせないのだ。

すると、芥川の言う内容とは、作家の持っている心的イメージのことで、一方、形式というのは、例えば、言葉のことだと言えるでしょう。

私が重要と思うのは、芥川の関心が、芸術家の心的イメージにあることです。これに関連して、芥川の「梅花に対する感情」(1924年)の中に、以下の言葉を発見することができます。

予等は芸術の士なるが故に、如実に万象を観ざる可らず。少くとも万人の眼光を借らず、予等の眼光を以て見ざる可らず。古来偉大なる芸術の士は皆この独自の眼光を有し、おのずから独自の表現を成せり。

その「独自の眼光」で見たものが、私の言葉では心的イメージに他なりません。

すると、今回の作品中にある「悟入」や「直観」に芥川が興味を示しているのも、なるほど頷けるように思われないでしょうか。

ところで、芥川は「文芸的な、余りに文芸的な」(1927年)の中で、「『話』らしい話のない小説」について言及しています。

芥川の説明は、私には必ずしも明瞭ではないように感じられますが、今回の解釈上で見逃せないのは、次の事実です。

すなわち、芥川は「『話』らしい話のない小説」の例として、ルナールの作品を挙げているのですが、彼はそれを、「『善く見る目』と『感じやすい心』とだけに仕上げることの出来る小説である」と説明しているのです。

さて、最後に、箴言集『侏儒の言葉』(1923~25年)の中から、「作家」と題された一文を引用しておきたいと思います。

文を作らんとするものは如何なる都会人であるにしても、その魂の奥底には野蛮人を一人持っていなければならぬ。

芸術家における「独自の眼」と「野蛮人」――芥川を導き、また苦しめもした、彼の信じる「芸術」の実体は、この辺りの言葉から理解できるかもしれません。

 

(3)参考図書

芥川龍之介「松浦一氏の「文学の本質」に就いて」『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店)

芥川竜之介「昔」他『芥川竜之介随筆集』(岩波文庫)

芥川龍之介「侏儒の言葉」他『侏儒の言葉 文芸的な、余りに文芸的な』(岩波文庫)

 

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芥川龍之介「鼻」 あらすじ/ノート

芥川龍之介(1892~1927年)の「鼻」は、1916年2月に発表されました。

この作品は師の夏目漱石に激賞され、芥川は「芋粥」と「手巾(ハンケチ)」を、それぞれ『新小説』と『中央公論』に発表する機会を得ることができました。

同作を発表した第四次『新思潮』に併せて掲載された以下の文章は、芥川の自信をよく表していると言えます。

僕はこれからも今月と同じやうな材料を使つて創作するつもりでゐる。あれを単なる歴史小説の仲間入をさせられてはたまらない。勿論今のが大したものだとは思はないが。その中にもう少しどうにか出来るだらう。(「編輯後に」)

以下、詳細なあらすじと、作品の補足(あるいはノート)です。

 

 

(1)あらすじ

禅智内供(ぜんちないぐ)の鼻と言えば、ここ池の尾で知らない者はいない。

長さは五、六寸あって、顎の下まで下がっている。その形は、まるで細長い腸詰めのように、元から先まで同じように太い。

五十歳を超えた内供は、小僧の頃からいつも、この鼻を苦にしてきたが、もちろん表面上は、さほど気にならないような顔をして澄ましている。

内供がその鼻を持て余したのは、一つには、実際的に、鼻の長いのが不便だったからである。第一、長い鼻が邪魔で、飯を食うにも一人では食えない。

しかし、実はそれは、長い鼻を苦に病んだ主たる理由ではない。内供が実に苦しんだのは、この鼻によって傷つけられる自尊心の為であった。……

ある年の秋、京へ上った弟子の僧が、中国から渡って来た医者から、長い鼻を短くする方法を教わってきた。そこで、内供はわざと弟子の僧に説き伏せさせて、しぶしぶという様子で、その方法を試してみることにした。

その方法というのは、ただ、湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませるという簡単なものであった。

さっそく、熱い湯で茹でた鼻を、力強く弟子が踏んでいると、やがて粟粒のようなものが、鼻へ出来はじめた。すると、弟子は医者から聞いた通りに、それを毛抜きで抜いていった。

最後にもう一度茹で、内供がその鼻を鏡で見てみると、まるで嘘のように、鼻は短くなっていた。内供は鏡の中の鼻を見て、満足そうに眼をしばたたいた。

ところが、二、三日経つ内に、内供は意外な事実を発見した。以前と違って、周りの人間たちが、遠慮もなく笑うようになったのである。内供にはその理由が、はっきりとは分らなかった。

内供は日ごとに機嫌が悪くなって、二言目には、誰でも意地悪く叱りつけるようになった。そんな様子であるから、しまいには、鼻の療治をしたあの弟子でさえ、堪りかねて内供を悪く言う始末であった。

しかし、ある夜、内供が床の中でまじまじしていると、ふと鼻が何時になくむず痒いのに気が付いた。触ってみると、鼻は少しむくんで、そこだけ熱さえある。内供は、何か病が起こったかと思った。

翌朝、いつもの通り、早くに目を覚ますと、ほとんど忘れかけていた感覚が、内供に再び戻ってきた。慌てて手をやると、鼻は、上唇の上から顎の下まで、五、六寸あまりもぶら下がっている。

鼻は、一夜の内に、また元の通り長くなったのである。ところが、内供は鼻が短くなった時と同じような、はればれとした心持ちを感じていた。

こうなれば、もう誰も笑うものはいないのに違いない――秋風に長い鼻をぶらつかせながら、内供は心の中で、そう呟いた。

 

(2)ノートA(事実関係)

少し遡って、1915年11月、芥川は東京帝国大学文学部の『帝国文学』誌上に「羅生門」を発表しました。

同作は作者の自信作ではありましたが、発表当初はほとんど反響を得ることができませんでした。

「ひょつとこ」も「羅生門」も『帝国文学』で発表した。勿論両方共誰の注目も惹かなかつた。完全に黙殺された。(「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」/1919年)

 

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芥川龍之介「羅生門」 あらすじ/ノート - History for a Break

 

芥川が文壇デヴューを果たすきっかけとなったのは、翌1916年の「鼻」(2月)が師の夏目漱石に認められたことでした。

芥川の友人である成瀬正一の「成瀬日記」によれば、芥川は「羅生門」の発表後の18日、同じく友人の久米正雄と二人で、夏目漱石の漱石山房を訪問する機会を得ました。

夏目漱石は木曜日を面会日と決めていましたが、以後、芥川はその木曜会に参加するようになります。

芥川が仲間の成瀬、久米、松岡譲、菊池寛と共に刊行した第四次『新思潮』(1916年)は、第一に、夏目漱石の目に触れることを目標としていました。

同誌の創刊号を公刊するため、彼らはロマン・ロランの『トルストイ』を分担して翻訳することで資金を得ました。その創刊号に、芥川は「鼻」を載せたのです。

夏目漱石は「鼻」を高く評価してくれました。その手紙にある漱石の言葉は、以下のようでした。

拝啓新思潮のあなたのものと久米君のものと成瀬君のものを読んで見ました/あなたのものは大変面白いと思ひます/落着があつて巫山戯てゐなくつて自然其儘の可笑味がおつとり出てゐる所に上品な趣があります/夫から材料が非常に新らしいのが眼につきます/文章が要領を得て能く整つてゐます/敬服しました。

同作発表の翌月、『読売新聞』の新刊紹介欄では、第四次『新思潮』の創刊が告知されると共に、「夏目漱石氏が激賞せしてふ芥川龍之介小説「鼻」は材を平安朝にとりしもの。本号の白眉なるべく」と書かれました。

これきっかけに、芥川は鈴木三重吉の『赤い鳥』に「芋粥」(9月)を、新人作家の登竜門『中央公論』に「手巾(ハンケチ)」(10月)を発表する機会を得ました。

そして、この「芋粥」と「手巾」の二作により、芥川は新人作家として文壇デヴューを果すことができたのです。

 

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(3)ノートB(個人的解釈)

ここからは、作品の個人的な解釈をごく簡単に記します(直観的に読んでいるだけなので、資料的な裏付けはありません)。

この作品の解釈的な問題の中心となるのは、もちろん、なぜ内供は鼻が再び長くなって喜んでいるのか、という問いだと思います。

あらすじには盛り込めませんでしたが、実際に作品を読んでみると、内供の鼻が再び長くなった早朝の情景は、以下のように描写されています。

寺内の銀杏や橡(とち)が、一晩の中に葉を落したので、庭は黄金(きん)を敷いたように明い。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光っている。

そして、内供は長い鼻を「あけ方の秋風にぶらつかせながら」、「こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない」と、心の中で呟くのです。

普通に読む限りでは、何か清々しい印象を、読者は抱くのではないでしょうか。

この辺りの描写に関して、私が事実関係を書く上で参照している参考図書(後述)の関口氏は、以下のように書いています。

語り手の背後にいる作者は、他人の目を絶えず気にする小心な五十男を開き直らせ、現実の中で精いっぱい生き抜く方向を指示している(…)

すなわち、関口氏は当時の作者の生涯史的な事実を踏まえつつ、「鼻」に表現されている主題を、「他人の目からの解放」と捉えるのです。

実際、素直に読めば、そういう解釈も成り立つものか、と私は思います。

しかし、様々な個性と自由の認められた、令和に生きる現代人の一人としては、内供が関口氏の言う「他人の目からの解放」を本当に享受しているようには、どうにも思えません。

これも、あらすじでは省略せざるを得ませんでしたが、芥川は、鼻の短くなった内供を笑う周囲の人間の心理を、以下のように説明しています。

人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。

作者はこのように言っていますが、個人的には、今一つ共感できない心理であるように感じられます。

そこで、私は芥川の説明をもう少し単純化して、次のような、おそらく現代人にも理解されるであろう心理を、代わりに考えます。

これは、非常に簡単なもので、例えば、私たちが高校生であるとして、普段お洒落とも何とも思われないような異性が、急に髪型をよくしてきた時――

こういう時、私たちはどうにも、何か妙な感じを抱かないでしょうか。もちろん、社交上は褒めることもあり、また、実際によくなったとも思うのですが、注意していても残ってしまう、おそらく、感情の負の部分。

私たちはおそらく、私たち自身が意識しているよりも、他人の身だしなみや行動が「身の丈に合っている」かどうかに、敏感なのだと思います。

それは、もちろん勝手な印象であって、大人としては、そんなことで人を悪く言ったりはしません。しかし、そのような心理が集団化した時、私たちの間に、必ずしも自制が働くとは限らないのが、人間というものです。

他人の見せた洗練、改善、努力を否定し、代わりに、元の低い状態に引きずり下ろそうとする心理、芥川が作中で言っている「傍観者の利己主義」とは、このようなものではないかと、私は考えています。

もし、「鼻」に見られる「他人の目」が以上の如きものだとすれば、再び鼻が長くなったことを喜ぶ内供の姿に認められるのは「解放」なのでしょうか。

これは、まったく現代人的な勝手な解釈かもしれませんが、他人の頭の中にある「身の丈」に自分を調節して安心しているような生き方は、各人に必要な発展性を欠いており、なかなか、自由とは言い難いものです。

 

(4)参考図書

芥川龍之介「鼻」『羅生門・鼻』(新潮文庫)

芥川龍之介「編輯後に」『芥川龍之介全集 第一巻』(岩波書店)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

 

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